お嬢さんalice
 道に迷っているのなら、お茶teaでも一つ1cup如何です?
 どうせ進む道も、帰る場所も無いのでしょう。


「不思議の国のお嬢さんAlice





 1 沈黙と混沌の狭間

 2 校則違反

 3 ベランダの透明な空間

 4 校内の旅

 5 桜の花弁の香り

 6 白い空間


















































1 沈黙と混沌の狭間


 -運命は廻りだしたか?-


 白い兎を追いかけよう。
 彼女は夢を見ただろうか?
 山高帽子の男は言った。
 物語の始まりはいつも突然だ。
 お嬢さんalice、貴方はそんな物語を今見ていますよ。

 まるで不思議の国。
 まるで御伽噺。

 三年六組の教室のドアを開けると、そこはそんな場所でした。


 影屋 売子かげやうりこは、扉を開けて凍りついたように停止した。
 四月。学年が上がって数日。まだ見慣れない教室に、見慣れないクラスメイト。
「嫌だなぁ。」
 人見知りとは自分の代名詞だと影屋はいつも思っていた。一年に一度必ず訪れるクラス替えは恐怖の行事で、クラスの別れた友達とはもう友達では無くなると本気で信じていた。
 そんな影屋にとって四月とは慣れるまでの戦いだった。
 深呼吸して、そっと教室のドアに手をかける。
「(お願い、誰も居ないでっ。)」
 注目される事を嫌う影屋は、教室に入った瞬間、音に振り向くクラスメイトにさえ怯えていた。だからこそ、誰も居ない一番を狙って登校する。
 影屋の登校時間には、学校特有の怖いぐらいの静寂が支配している。
 自分の足音さえ恐ろしい。
 それでも影屋はその時間を選ぶ。
 それ以上に、人間が怖いからだ。
 そして、今日もいつも通り教室のドアを開け、開けたはずだった。
 そのまま影屋は凍りついたように停止した。
 そこは、教室ではなかった。
 そこは影屋の知る、どんな場所でも無かった。
 漆黒のビロードを敷き詰めた夜色の空間に、眩しい緑の葉が多い茂る蔦が所狭しと巻きついて、その中央で白いテラステーブルと揃いのイスが数脚それぞれの主を待っているかの様に、又は持っているかの様に堂々と存在を証明している。
 イスに座るのは、黒い山高帽子を被った燕尾服の男と、白い兎。そして緑の蔦を操る様に囲まれて蒼いワンピースの少女が一人。
 影屋は思った。
 ああ、まだ夢見てるのかな。と。それ程までにこの光景は現実離れしていて、影屋の処理範囲を超えていた。
 山高帽子の男は言う。
「迷える、お嬢さんalice。ようこそ、狭間へ。」
 影屋はまだ凍りついたまま動けない。
 机に向かっていたイスごと身体を影屋のほうへぐるりと回し、山高帽子の男は笑みを浮かべる。
お嬢さんalice、確かに此処は現実ではありませんが、夢でもありません。これはお嬢さんalice、貴方の物語storyですよ。」
 見ている。
 影屋は緊張した。見知らぬ目が、じっと影屋を見ている。
 山高帽子に白兎、そして少女が見ている。
 ごくりと生唾を飲み込んで、出しかけた声でさえ喉の奥でつっかえて、空気だけが枯れたまま吐き出された。
 少女が失笑したように、ふっと暗く笑い、白兎はまるで関心が無いと湯気の立つ良い香りの紅茶を啜った。山高帽子の男だけがイスから立ち上がり、こっちへと、影屋の方へと歩いて来る。
 こないでっ!と影屋の心は叫ぶ。
 けれど山高帽氏はゆっくりと、堂々とした足取りで近づいてくる。
 歩数にして四歩。
 細い縫い針の様なその男は、影屋の頭の更に上、教室の扉の枠に額をぶつけるようなそんな位置から、影屋を見下ろし、そして大仰に膝を折った挨拶で固まっている影屋の手を救い上げた。
 まるで女王の手に口付けするような、そんな仕草だと影屋は思った。
「おや、お嬢さんaliceは緊張しているのかな?これは推測でしかないが、もしそうならどうぞ気を楽にする事をお勧めするよ。ここは貴方にとって居心地の良い場所のはずだからね。そうとも、ここは言うなれば貴方の故郷とも言える場所なのだからね。」
 大仰に膝を折ったまま山高帽氏は不敵に微笑む。
 安心するような、不安を煽られるような、どちらとも言えない表情で。
「さぁ、この一歩をどうぞ踏み出し下さい、お嬢さんalice。その先へ進むのは、踏み出してからでも遅くは無い。」
 言葉の魔法にまるで引き摺られるかのように、影屋の足はその意思とは関係なく一歩を踏み出そうと固まったままの筋肉に働きかける。
 錆びたキコリの様に、骨と骨がギシギシと音を立てている気がしてならない。
 ぎこちないその動きは、ゆっくりと、それでも確実に教室への一歩を踏み出していた。
「あっ、あっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…!」
 思いとはまったく別の動きをする身体に、影屋の脳が焼ききれて悲鳴を上げた。
 それは恐怖か、それともまったく別の感情か。
 解らないまま、影屋の足はずるずると動き、身体は教室へのラインを完全に乗り越えて、そして後ろ手に扉は勢い良く音を立てて閉まった。
 ガタンッ
 扉は閉まると同時に、その存在を消滅させた。
 戻れない。その恐怖が影屋を追い詰める。
 足の動きはまだ止まらない。
 何処へ?
 答えは目前だった。
 白いテラステーブル。
 そして、イスの一つが影屋を待っていた。
「あっfsかfじゃをうぃthpをあうってwjが;おw!!!」
 既に悲鳴は言葉を成していない。
 山高帽氏はやれやれと肩をすくませ、少女は既に影屋に関心を無くしている。白兎は五月蝿いと耳をひん曲げまだ紅茶を啜っている。
 やがて膝は折れ、イスが影屋を出迎えた。
 すとん、と力が抜けたようにイスにつくと、山高帽氏は暖かい紅茶を彼女の前に差し出した。
お嬢さんalice、少しこれで落ち着いた方がいい。このままでは楽しいお茶会も台無しだ。まずその言葉を止めなさい。そんなに叫ばなくとも、私達には聞こえているよ。お嬢さんalice、貴方の心の声がね。さぁ、飲みたまえ。貴方に必要な安らぎが、そこには沢山入っている。」
 無理やり影屋の体が動く。
「うぎgiっ」
 僅かな抵抗として、口をつけまいと努力したが、残念ながら影屋の身体は完全に主人を無視し、その温かい紅茶を美味しく飲み干した。
 ごくっ ごくっ ごっくん
 飲み干して、影屋はほっと一息ついた。
 そんな様には見えなかったが、本当に必要な安らぎでも入っていたかの様に、飲み干した後の影屋の心は落ち着いていた。  あれっ、と不思議な程穏やかに、重い荷物を降ろした後のようなそんな脱力感。
「落ち着いたかね、お嬢さんalice。」
「うん。落ち着きすぎて、驚けない。」
「ははは。素直なお嬢さんaliceだ。そうだね、君の心は今、かつて無いほど穏やかだ。私達も会話がし易くなったよ。さて、お嬢さんalice。改めてようこそ、狭間へ。此処の解釈は君の思う通りで間違いない。元々解釈などいらない場所ではあるがね。」
 山高帽氏は自分のイスに腰を下ろし、優雅な風に紅茶を啜りながらそう言った。
 啜りながら、そう言った。
 口はカップにつけられ、紅茶を飲んでいたのに、言葉は届いた。
「何を不思議がっているのかな?此処では言葉なんて無粋なものは使わない。皆心で会話するのだから。お嬢さんalice、貴方もずっとそうしてきたではありませんか。」
「本当に?」
「でなければ、私達と会話など成立しませんよ。さぁ、もう一杯如何です?」
 答えを聞かずに山高帽氏は影屋のカップに紅茶を注いだ。
「どうして私をお嬢さんaliceと呼ぶの?」
「それは貴方の役割がそれだからですよ。ここには役割を持つ者しかいません、お嬢さんalice。貴方の役割は、“迷子のお嬢さんalice”しかし、迷子は決して永遠ではありません。必ず帰るべき場所へ辿り着けるのですから。そして私、私の役割は“おしゃべりな帽子屋”。そして彼は時を管理する兎。彼女は…少し特殊ですが“帰る場所を失った少女”です。まだまだ貴方の仲間はいますが…ふむ。どうやら少し遅れているようだ。どうだね、白兎。」
「遅れてる。三分十二秒・十三秒・十四秒…」
「時間にルーズな者が多いようだ。」
「あなた達は一体何なの?」
「おやおや、どうしてそんな事を尋ねるのでしょう、お嬢さんalice?そんな事はとっくの昔に、知っているでしょうに。」
 山高帽氏は不敵に笑って、また紅茶を啜った。それ以上の答えは無い様だ。
 影屋も仕方なく紅茶を啜る。
 気がつけば、身体はもう、影屋の思うとおりに動くようになっていた。
「私、いつ帰れるの?今日は一時間目から実力テストがあるんだけど…。」
 答えたのは白兎だった。
「まだ8760時間もしくは525600分もしくは315360000秒有り余ってる。」
「おやおや、それはきっと永遠の数字だな。」
 白兎の回答に、山高帽氏は笑って答えた。
 陽気な山高帽氏に寡黙な白兎。それは不思議な組み合わせでは在ったが、在り得ない組み合わせではなかった。
 紅茶を一口啜るたびに、影屋は心が満たされていくのを感じていた。
 本当は実力テストなんてどうでもいい。夜更かしの口実。点数だって、あまり良い点を取ると友達には敬遠される。悪いと親が五月蝿い。そんなギリギリのラインをいつも狙って、怯えてた。
 そんなに時間が在るなら、だったら大丈夫だろう。
 影屋はそう思い、もう一口紅茶を啜った。
 飲んだことの無い味だった。
 この世界に存在していたのだろうか。それとも此処だから存在し得るのだろうか。
 それも、どちらでも良くなった。
 紅茶を啜る、それが心地よかった。
 誰も話さなかった。
 それぞれがそれぞれのイスに座って、紅茶を啜っていた。
 山高帽氏も、白い兎も、蒼いワンピースの少女も、そして影屋も。

 それでもそこは
 温かかった。

   


+end+
2008.04.11
















































2 校則違反


 -逃げろ逃げろ逃げろ-


 さぁさ 首を切りましょう。
 赤いバラに青いバラ。
 どちらだってかまわない。
 どちらか一つでかまわない。
 さぁさ 首を切りましょう。
 ハートの女王queenはそう言って、巨大な鋏を振り回す。

 まるで不思議の国。
 まるで御伽噺。

 三年六組の教室のドアを開けると、そこはそんな場所でした。


「既に789秒が経過した。」
 彼らを見て、白い兎はさも興味の欠片もなさそうに言った。
「大仰に遅刻ではないか。これではせっかくのお茶会も台無しだ。こちらのお嬢さんaliceもすっかり退屈してしまっている。なぁに、それでもここらの退屈など退屈しのぎにしかならないのだがな。それにしても、それにしても、遅すぎる。君達は一体全体何をしてたと言うのかな?」
 山高帽氏の男は問うた。蒼いワンピースの少女は興味が無いどころかその存在自体を抹消してしまったかのように関係ないと影屋の向かいでまだ優雅に紅茶を啜っている。
 等の影屋は新しい登場人物の出現で大変困っていた。
 見れば人のようだが、短髪金髪の頭には猫の様な耳。細い足のぶら下がったお尻にはくねくね動く尻尾。揃いの縞柄の服を着て、その服から出ている手先足先には肉球が見て取れる。
 妖怪?
 紅茶を飲んで落ち着いていた気分が、またハラハラと心臓の鼓動を騒ぎ立て始めてしまった。
 彼らは笑った。
「「なぁに、ちょいとね。」」
 口の端をニヤリと吊り上げてそう言うと、何が面白いのかゲラゲラ笑った。
 その意味ありげな行動に、山高帽氏は怪訝そうに顔をしかめて言う。
「また女王queenの庭に悪戯でもしてきたといった風情だな、困った困った。」
 困ったという割には、山高帽氏は困った顔をしていない。精々、止めておけばいいものを。と言ったような顔だ。
「「俺達は気まぐれさ。それを教えてあげたまで。」」
 ゲラゲラゲラとまた笑う。
 一つため息をついて切り替えたとばかり、山高帽氏は影屋に向き直って申し訳なさそうに言った。
「この双子の猫はね、お嬢さんalice。悪戯好きのチェシャ猫兄弟。与えられた役割は笑い続ける事。彼らが笑っているのは役割であるから、どうぞ気になさらずに。気さくな連中です。度を知らないと言えば迷惑に聞こえるかもしれませんが、我々茶会のメンバーに危害を加えるような真似はいたしません。私の帽子に誓いましょう。どうか、安心して自己紹介をしてやってください。」
「「自己紹介なんて必要ないさ。俺達は俺達以外の何者でもなく、あんたはあんた以外の何者でもないんだから、他人から聞いた紹介文だけでざっと事はたりるのさ。」」
 ゲラゲラゲラ。猫は笑う。
「どうして二人いっしょにしゃべってるの?」
「「おっと、そいつぁどうして疑問に思う?俺達は双子。一心同体。考える事とタイミングが同じってだけの話じゃぁないか。何も不思議はありゃしない。」」
「まるでスピーカーみたいね。」
「「すぴーか?それは一体何て代物だい?お嬢さんalice。」」
 ゲラゲラ笑って猫は問う。
「えっと、えっと、えとえと。」
 果てさて、スピーカーと言えばあの音が出てくるスピーカーの事ではあるけれど、急に聞かれて説明を求められると一体全体何であったかすんなりとは出てきてくれないのが人間の脳の悪い癖だ。そして影屋は人一倍プレッシャーに弱い。
 焦れば焦るほど回答はどんどんどんどん霞んでいく。
 ゲラゲラゲラゲラ猫は笑う。
「「可笑しな話さ。答えが無いんだから。愉快愉快。答えのないものはきっと最初から答えなんて無いのさ!それを探そうとしているあんたは大層可笑しな努力家だ!」」
 ゲラゲラゲラゲラ笑いは止まらない。
 思い出せない影屋は恥ずかしさで俯いた。
「「おいおいおいおいお嬢さんalice。何もそんなにしょげる事はないんだぜ。扱いにくいな、笑っていこうぜ。答えられないは罪じゃない。聞いた俺らが罪なのさ。」」
 ゲラゲラゲラゲラ猫は笑う。
 山高帽氏は呆れて言った。
「本当に気にする事は無いのですお嬢さんalice。彼らはその場その時間その瞬間の言葉を何の躊躇いも無く並べているだけで、何も考えては居ないのですから。」
 ゲラゲラゲラゲラ猫は笑う。
「「そうさ、そうさ。気にする事なんて欠片もないさ。今が楽しければそれで良い。さぁて俺達は逃げるとしよう。首切り鋏がすぐそこで俺達二人を狙ってる。」」
 ゲラゲラゲラゲラ猫は笑う。
「おやおや、矢張り君たちは女王の庭に悪戯をしてきたのだね。そして女王queenに追われている。首を切られるなんて余程の校則違反だ。一体全体何をやらかしたのか、私としても聴いておかなければならなくなった。」
 山高帽氏は余裕な素振りで紅茶を啜りながら猫に問うた。
 首を切られるだなんて物騒な話、影屋は心配で仕方が無い。
 それでも猫はゲラゲラ笑う。
「「女王queenの大切にしているバラの木に七色の色をつけてあげたのさ。虹の向こうの素敵な宝。それをプレゼントした訳さ。なぁに、赤一色・青一色のどちらかなんて堅い頭の女王queenの悩みの種を消したのさ。トランプ兵は大騒ぎ。きっと首を切られたに違いない。」」
 ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ。
 腹を抱えて猫は笑う。
「大丈夫なの?」
 心配そうに問う影屋に猫たちは笑いを止めない。そのうち笑いすぎて死んでしまうのではないかと思うほど心の底から笑いを吐き出している様に見えた。
 そこへ、聞いたことの無い声が笑いを引き裂くように凛と響いた。
「猫の首は飛ばねども、少女の首は容易く飛ぶよ。」
 一瞬、誰だかまったくわからなかった影屋だが、全員が全員同じ方向を見ていた為に、それが誰だかわかった。
 そこには紅茶を啜りながら立ち上がって、無表情のままこちらを見ている少女の姿があった。今まで一度も言葉らしい文章を発してはいなかった、あの蒼いワンピースの少女だ。
 少女は全員がこちらを向いたのを確認すると、力任せに自分のティーカップを地面にたたきつけた。
 硝子の割れる耳をふさぎたくなるような音が空間に響いてた。
 すると、それが合図であったかのように猫は走り出し、山高帽氏と白兎は自分のカップを急いで割った。そして、
お嬢さんalice、話を聞いていなかったのかね?いや、それとも私がまだ話していなかったのだろうか。とにかく今は時間が無い。急いでカップを割りたまえ。」
 戸惑う影屋に更に言う。
「急ぎなさい。お嬢さんalice。君の優柔不断は今は必要ない。割れば良い、ただそれだけの事だから。」
 決して厳しい口調ではないが、明らかに焦って早口になっている。それが言葉を厳しくさせていた。影屋があわてて自分のカップを割るた。
 見ると、少女と白兎の姿はもう随分小さく遠いところにあった。
「逃げ遅れるときっと命取りになるでしょう。さぁ、走って!」
 小さくなった姿を追いかけるように山高帽氏は走行を開始した。長い足でずんずん走っていく。影屋は置いていかれては大変だと遅れを取って走り出した。
お嬢さんalice、もっと早く走って!追いつかれれば首がなくなりますよ!」
 かけられる声がだんだん遠くなっていくように感じた。影屋はそれでも懸命に足を動かす。
お嬢さんalice、さぁもっと早く!」
 周りは真っ暗で。右も左も上も下も無いと言った様な感じだ。
 緑の蔦でさえも、此処には届かない。
 少女の発した言葉の意味を考えながら、影屋は息をすることも忘れてとにかく足を動かした。
   けれど勿論影屋は陸上部員ではないし、愚鈍の亀のように鈍間で悪い注目を浴びる要素である体育は苦手科目の一つだった。
 そんな影屋が山高帽氏の長い足についていけるかと言うと、それは絶対ではない。
*嬢*んalice、急*で*!」
 声はどんどんと遠ざかっていく。
 けれど、影屋の足はこれ以上早くは動けない。もつれそうな勢いで精一杯の全力なのだから。
 暫くするとかけられていた声さえ聞こえなくなって、影屋は真っ黒な世界に一人取り残されてしまった。
 見えなくなったと影屋は思った。
 思ったけれど、影屋は止まる事はしなかった。
 山高帽氏の言葉が鮮明に影屋の中で回り続けていたからだ。
 即ち、「追いつかれると首がなくなる」というこの一言だ。
 その恐怖から逃れる為だけに影屋は走った。
 上も下も右も左もわからないこの場所を、ひたすら真っ直ぐ走り続けた。
 本当は真っ直ぐ走っているつもりで、まったく別の方向へそれているかもしれないといつものマイナス思考が影屋の足元からじわじわ這い上がってきたけれど、あのティーカップの様に地面に叩きつける事でどうにか考えないように努力した。
 一体後ろから何が迫ってきているんだろう。
 振り返りたくても、恐怖でつき動いている影屋にはそれは出来なかった。
 もし影屋が一瞬でも振り向いていたなら、大きな銀色の鋏を持ったハートの女王queenの姿が欠片でも目に入ったかもしれない。
 もし目に入っていたら、それは影屋の首がジョキンと切り取られてしまうことを意味する。
 ギリギリのラインで逃げ切りながら、影屋の首は繋がっていた。

 そうして、どれだけ走ったか解らないうちに、影屋はふいに壁にぶつかった。
 それはいきなり影屋の目の前に現れ、全力と呼べるほどの勢いで走っていた影屋は止まる事も出来ずに正面衝突した。
 今はこんな所で止まっている暇は無いのにと、ドギドギ跳ねる不安のリズムを感じながら、影屋はぶつかった壁を見上げた。
 背伸びをしてようやく両手の先が届く程の高い壁だった。
 それは永遠に長く垂直に伸びていて、この先へ進むには迂回するより乗り越えた方が早いと物語っていた。
 きっと猫たちは飛び越えただろう。それもいとも簡単に。
 白兎もきっと飛び越えただろう。
 少女はどうにも出来なくても、山高帽氏が助けただろう。
 山高帽氏の長身なら、きっとこの壁は高くなかったに違いない。
 指の先に力を込めて、影屋は地面を蹴り上げた。
 けれど、大して鍛えてもいない腕力ではぶら下がるのが精一杯で、そこから上へ行くことが出来ない。
 せめて誰かいてくれたら助けてもらえたかもしれないと、影屋は思った。
 思ったところでどうにもならないのと同様で、ぶら下がっているだけでもどうにもなら無い。
 一度地面に降り、もう一度、今度は助走をつけて影屋は壁をよじ登るように手をかけた。
 勢いはあったが、それでもやはり壁を登るには足りなかった。
 何度も続けている時間は勿論無い。
 影屋自身には見えてはいないが、もうすぐそこまで鋏は迫ってきているかもしれないのだ。
 焦れば焦るほど、やっぱり人間の脳は正常に働いてはくれない。
 自分はこんなところで終わるのだろうか。
 不意に影屋は泣きたくなった。
 こんな名も知らない世界で、私は一人寂しく死んでしまうのだろうか。
 家族や友達にも二度と会えないのだろうか。
 それに、誰が一体私を見つけられるんだろう。
 そうなるとぼろぼろ涙が溢れて止まらなくなってしまった。
 とうとう影屋は逃げる事を止めてしゃがみこみ、グズグズと泣き出してしまった。
 だが、
「おいおい、涙はいかんよ。涙は。海が出来るからね。」
 しゃがみこんだ影屋の更に下、地面の中かと思える辺りから小さくか細い、それでもハッキリした声が聞こえてきた。
お嬢さんalice、あんた何を泣いてるんだろう?パイプの火が消えてしまうよ。この小さい蟲の唯一の楽しみを奪いに来たというのなら、もうそれはそれで容赦はしないところなんだが、それでも悲しくて泣いているようだ。踏みつけられるかとひやひやしたが、なぁに、蟲は寛大だ。小さな身体に似合わず大きな心と魂を下げている。そこを認められてこのパイプに火をもらえたのだがね。」
 影屋はその声の正体を突き止めて、目を丸くさせた。
 壁に沿って生えるたくましい雑草の上の小さな緑の芋虫が、ぷがぷがパイプをふかしながら影屋を見ていたからだ。
「あなたがしゃべったの?」
「他に誰かいたのなら、きっとこの小さな虫の声は大きなお嬢さんaliceには届かなかったろうね。そうやってみんな私共を踏みつけていくのだから。そんな事はきっと、どうでもいいのだろうねぇ。さてさて、お嬢さんaliceの涙のわけを聞いてあげましょう。」
「この壁を越えたいの。でも背が小さくて届かないの。」
 影屋はなるだけ簡単に、急いで言った。
 この蟲のゆっくりなペースに合わせていたら、いつ首がなるなるかわからないからだ。
お嬢さんaliceは十分大きいよ。そでもまだ足りないというのなら、さぁさ、これをあげましょう。」
 芋虫はそう言うと、色の違う二つの豆のようなものを影屋の前に差し出した。
「これはなぁにと、不思議でしょう。青い豆は体が縮み、赤い豆は体が伸びる。私共蟲はこれらをせっせと作っては大きくなったり小さくなったりと進化を続けてきたのですよ。赤い豆で壁を越えた後、青い豆で元にお戻りなさい。なに、お礼は結構です。あなたが踏みつけないでいてくだされば、それでいいのです。」
 影屋は少しの間これが本当に大丈夫な豆なのか考えたが、考えただけ無駄だった。
 答えは既に決まっていたのだから。
「ありがとう、芋虫さん!」
 そう言うが早いが影屋は赤い豆を飲み込んだ。
 とたんに影屋の身体は大きく伸び上がり、巨人のように黒い世界に立ち上がった。
 そしてゆっくりと壊してしまわないように慎重に壁を越えると、大きくなった掌の上で小さな米粒の様になってしまった青い豆を飲み込んだ。
 今度は影屋の身長がずんずん小さく縮み始め、見る間に元の大きさにまで縮んでしまった。しかし、それだけでは止まらない。
 影屋の身体は元のサイズを通り越し、小人のような大きさにまで縮みすぎてしまった。
「話が違うじゃない!」
 壁の向こうの蟲に抗議の声を上げた影屋。
 けれど小さくなってしまった影屋の声は、分厚い壁の向こう側には届かず、何の返事も無かった。
 近くに同じような蟲はいないか探したけれど、都合の良い事は続かないものである。
 けれど、壁の向こうは結局同じ黒い世界が続いていて、壁の大きさ以外は何も変わっていないかのように思えた。
 影屋はとりあえず進む事にした。
 とにかく山高帽子に追いつけばきっとなんとかなるだろう。
 そんな思いを希望の糧にして。

 進みだしたその先は
 どこまでもどこまでも真っ黒だった。
         


+end+
2008.04.23
















































3 ベランダの透明な空間


 -貴方は既に罪人です。-


 よく考えて決めねばならぬ。
 行き着く先の、地獄か楽園か。
 硝子の下は底が無い。
 暗い暗い闇ばかり。
 その一歩を踏み出せば、確実貴方は落ちるでしょう。
 ハートの兵隊Jackはそう言われ、急いで一歩後ずさる。

 まるで不思議の国。
 まるで御伽噺。

 三年六組の教室のドアを開けると、そこはそんな場所でした。


 暗いその世界は、先へ進んでいてもまるで止まっているかのようで、影屋の走りは次第に緩慢なものへと変わっていた。それはゆっくり歩くには早すぎて、早く走るには遅すぎるスピードだった。止まる事はしないものの、影屋は不安と疲れからもうこれ以上先へは進めないと感じていた。
 そもそも、ここは影屋の知る世界では無いのである。
 自分が何処へ向かってどう進もうと、それが間違っているのか、正しいのかなんて決して解りはしない。
 首を切られる事は恐ろしいが、それでもこれでは何処へ逃げればいいかなんてわからない。
 目的地がわからずに進んで行く行為は、倍以上の疲れを感じさせた。
 ハートの女王queenは本当に首を切るだろうか。
 だったら、もう切られても良いかもしれない。
 本来自分は、そんなに生きていたいと願った事は無いのだから。
 死にたいほどの毎日を生きてきたのだから。
 だったら、良いかもしれない。
 そう考えると、影屋の気持ちは少し楽になった。必死に逃げなくても良い状況が鎮静剤のように影屋の心を落ち着かせ、そうして少しばかりの余裕を与えた。
 すると、今まで見えなかったものが影屋の前に現れた。
 それは、眩しく輝く建物だった。
 黒い世界の中に、余りに眩しすぎて、影屋は最初何の建物だかまったくわからなかった。
 しかし、目が光に慣れてくると、それはどこかで見た事のあるような、まったく見た事の無いような形の…例えるならベランダかバルコニーのようなそんなものがずいっとぶら下がった様な建物だった。
 いや、率直に表現するなら、それとそれに繋がる階段だけで成り立っていた。
 薄い板と階段。横から見ると7の数字の様なその形。
 薄い板にはけれど安全な柵は無く、本当に飛び石の一番目の様に薄い平らな一枚の板だけ。
 階段は梯子の様に、二本の棒の間に足場が乱雑に組まれている。
 どうやってバランスを保っているのかまったく解らない。まさに宙に浮かんでいるといった様のその建物は、全て硝子のような透き通る何かで作られていた。
 しかし、見上げ見て影屋はもっと驚いた。
 その奇妙な建物を見下すように上に、半円にそって座席がずらりと並んでいたからである。
 椅子だけが、綺麗に整頓されて、並んでいる。
 本当に変な世界へ来てしまったんだと影屋は思った。
「一体全体、何なんのコレ。」
 思わず影屋は呟いた。
 途端、その影屋の疑問に答えるかのように巨大なラッパの音が鳴り響いた。

ブロファファファファファファファファーン
ブロファファファファファファファファーン
ブロ ファ ファ ファ ファ ファーン

 思わず耳を塞いだ。
 鼓膜が破れるような勢いでその音が空間に跳ね返り、いたずらな妖精の様に辺りを蹂躙したからだ。
 けれどそれは空間を切り裂くような潔さでピタリと止まった。
 続いて

カツン カツン

 と何かを叩く控えめな、それでいて威厳のある音が聞こえた。
「えー、それでは皆様、席に御着きください。えー、そこの貴方もです。えー、皆様ご自身の椅子が迎えに参ります。えー、席に御着きください。」
 威厳のある音に続く声は、頼りない声だった。
 けれど、その声に反応するようにビュンビュンと何かが飛び回り始め、そしてそれが先ほど綺麗に並んでいた椅子だという事を影屋が確認する前に、影屋の身体が何かに掬い取られてた。
「ぬぁっ」
 振動で反射的に声を上げる。
 けれどまるでこの世界に誘い込まれた時のように、それは動く事を止めず、何も解らないまま影屋を上空の座席へと連れ去って行った。
 椅子が動きを止めると、影屋はまるでジェットコースターに百万回乗った後のような気分の悪さを感じた。

カツン カツン

 影屋の状態を余所に、また音が鳴り響く。
 影屋が周りを見渡すと、立派な服に身を包んだ亀やら狐やら何やら色々な動物達が正に紳士淑女のようにそれぞれの椅子に鎮座し、中央のあの奇妙な建物を見ていた。
 上空から見ると、建物と言うより、ただの板だ。影屋は思った。

カツン カツン

「あー、静粛に。静粛に。お集まりの紳士淑女の皆様、あー、それでは裁判を始めます。」
 便りの無い声はそう言って、もう一度だけカツンと鳴らした。
 それは影屋の見た事のある、正に裁判で使われる木槌だった。
 裁判なんてテレビの中継でさえ真面目に見た事が無い影屋ではあるが、それでもそれぐらいは解った。
 ただ、解ったのはそれだけだ。
 裁判官と陪審員と被告人。
 それぞれの関係性を何となく確認出来るものの、それがどのように繋がっているのか解らない。
 方程式は覚えていても、答えが出ない数学と同じだ。
 それでも椅子に座らされている状況では、この裁判を見守る事しか出来ない。
 影屋はなるだけ息を潜めて存在を殺してじっとしている事にした。
 此処ではなんだか教室と同じで、人見知りの影屋の嫌いな雰囲気に満ち溢れていた。
 目が合えば目線に殺されそうな雰囲気。
 ひそひそと囁く声が、心を切りつける陰口を唱えている様に錯覚する雰囲気。
 こんな場所ではじっとしているのが一番だ。
 見つけられないように、じっとしているのが。
 影屋は俯いて、膝の上に握りこぶしを作ると、ただひたすらこの裁判が終わるのを待った。

「この者は所定の時間より早く昼食を食べていた。死刑!」
カァンッ
「この者は作業中に娯楽をしていた。首を刎ねろ!」
カァンッ
「この者は集合時間に遅れた。拷問に掛ける!」
カァンッ

 何度か事項が読み上げられて、その度に木槌が勇ましく響き渡った。
 内容はどれも裁判に掛けるような内容ではなかったが、判決はその内容に似合わず重く恐ろしいものばかりだった。
 影屋のクラスメイトにも早弁や遅刻者が多々存在する。けれど彼らは首を刎ねられたりはしない。
 少し怒られるくらいだ。
 変だ。本当に変な世界だ。
 影屋は早く終われ早く終われと心の中で何度も呟いた。
 こんな所に長く居ればそれだけで影屋の何かが死んでしまうような気がしたからだ。
 それはきっと、恐怖だったのだろう。
 それでも永遠の様にその儀式は続き、どうしようもなく陳腐な罪で罪人達は裁かれていった。
 そして、木槌が今までより一層力を込めて叩かれたので、どこか遠くへ旅立っていた影屋の魂はその場所へと呼び戻されてしまった。
 我に返った。と言った方が良いのだろうか。
 はっっとして木槌に注目すると、
「それでは、最後の裁判です。これは今までに無いほど極悪な罪です。どうか皆様。今日お集まりいただいたのはこの者への罰を決めていただきたいからなのです。」
 頼りない声がそれでも精一杯の威厳を持ってそう言った。
 周囲がざわめき立つ。  どの裁判よりも注目を集めているのだと肌で感じた影屋は、自分が注目された訳ではないのに萎縮してしまった。
「ハートの兵隊Jackを此処へ!」

カァァアン

 より一層凛とした音を立てて木槌が鳴らされた。
 トランプの兵隊によって連れてこられたのは、軍服を着た青年だった。手には手錠が掛けられ息苦しいのか詰襟の襟元をし切りに正している。
「ハートの兵隊Jack!彼の者は我君の三時の食事であるタルトを摘み食いした罪にてこの場に在る!我君であるハートの女王queenの所有物に手を出した罪は重く、それを我々裁判官の一存で罪を決定するには浅はかである!どうか皆様お考え頂きたい!」
カァァアン
 注目の的であるハートの兵隊Jackは事の重大さが解っていないのか、それとも大物なのか、「いやだね、堅苦しいのはどうも」と欠伸をしながらだらりと姿勢を崩している。
 無関係の影屋が萎縮しているのとまったく正反対だ。  堂々としているその態度は、今から悪い事をして裁かれると言った雰囲気はまるで無い。どちらかと言うと悪戯をして怒られているのに全く意に介していない子供のようだ。
 影屋は感心していた。私には絶対出来ない。
 それでもその態度は影屋以外の目には反省の色の無い不遜な態度と見えているようで、
「死刑だ!死刑だ!」
 一人がそう叫ぶと、全員が口をそろえて叫びだした。
 恐い。
 簡単に死刑だと言ってしまえるこの人たちが、恐い。
カンカンカンッ
 木槌が叩かれる。
「全員の意見が一致していない。そこのお嬢さんalice。君、意見を言いなさい。」
 誰だろうと考える暇も無く、その相手が影屋を指していることが解った。
 今やハートの兵隊Jackに向けられていた視線が、全て影屋に集まっていたからだ。
 誰もが影屋の答えを待つ様に、ただじっと静かに影屋を睨んでいる。
 咽の奥から声が助けてと悲鳴を上げそうに鳴って、視線に負けてつっかえる。
 どうしようどうしようどうしよう。
 多くの視線にさらされて影屋は泣きたくなった。
 学校でも出来るだけ視線を集めないように努力してきたのに、何もせずにじっとしてやり過ごしてきたのに、ここでもそうしていたのに、どうして注目されてしまったのだろう。
 何もして無いのに。
 何もして無いのに。
 何もして無いのに。
 何も…して無いから?
 目頭が熱い。
「早く、意見を述べなさい。」

カツンカツンッ

 急かすように木槌が叩かれる。
 どうしよう。と影屋の頭の中はまるで呪われた様にそれしか考えられない。
 どうしようどうしようどうしようどうしよう。
「なぁ、タルトを食っちまったのがそんなに悪いか?」
 そんな影屋を救ったのが、裁判に掛けられている張本人、ハートの兵隊Jackだった。
 詰襟につけられたハート型の金のバッチを右手で弄びながら、彼は意地の悪い笑みを浮かべてそこに立っていた。
 右目は長い前髪で隠れて見えないが、左目の蒼い瞳が細く歪められて獰猛な獣のような笑みだった。
「俺はハートの女王queenの軍隊だが、タルト一個食ったぐらいで死刑にされるような罪は犯してないだろう。今まで女王queenのお気に召すまま働いてきたんだ。焼きたての美味しい匂いに釣られてついつい摘んじゃったぐらい、笑って許せよ。鷹揚な心が無いと上に立つものの器が知れるぜ?」
「死刑だ!!」
 沸き立つように群衆が死刑を叫んだ。青年の態度に激怒したのだろう。
 それでも青年は片目で笑っている。
 よく見ると彼は影屋を見ていた。
「ねぇ、あんたもそう思うんだろ?馬鹿らしいよな。こんな事で死刑にされるなんてさ。」
 彼が笑いながら問う。
「言ってやれよ、あんたの意見が揃わなきゃそもそも俺の裁判が終わらないんだよ。」
 余裕の在る笑みだけれど、影屋にとってその期待はプレッシャー以外の何でも無い。
「あっ…」
 出しかけた声は言葉の形に成ってはくれない。
 それでも影屋が何かを話し出すのを待っているのだろう。
 その場が静まり返り、誰もが影屋に視線を集中させた。
 青年は影屋と視線が合うと、小さく手を振ってにこりと笑ってくれた。
 口だけを動かして、「は・や・く」と急かすのも忘れない。
 その時間はほんの一分も無かったけれど、影屋の中では一生の様に長かった。
「わ、私は…死刑は…違うと思う…。」
 影屋はこのまま一生視線を集めているくらいならと、勇気を振り絞ってやっとそれだけとても小さな声で言えた。
 言ってみると心が楽になった。
 言わなきゃ言わなきゃと苦しめていた何かが、言葉と一緒に何処かへ行ってしまったようだ。
 顔を上げると青年がニシシと笑って影屋に良くやったとばかりにエールを送ってくれた。
 今まで言わずに後悔して来たけれど、あれ、こんなに簡単なんだ。
 言ったらみんな壊れちゃうと思ってたけれど、そうじゃない人もいるんだ。
 そう思うと勇気が沸いて来た。
「タルトを食べただけで死刑は変だと思う。駄目って注意するだけで良いと思う!」
 影屋はいつもより大きな声で、そしてはっきり発言出来た。
 それは影屋の知らなかった爽快さを伴って、すらすらと心から出てきた。
「と言う訳だよ、皆さん?俺の死刑は取り消しだな。お嬢さんaliceの前じゃあんた達の雑言なんて霞んで聞こえるぜ。彼女の決意はこの場の誰より強いようだ。ははっ、俺も大したラッキーだ。こんな大物に出会えるなんてな。命拾いしたぜ!」
 ハートの兵隊Jackがそう言うと、慌てたように木槌が鳴らされた。
「閉廷!」
 木槌と共に頼りない声が宣言する。
 不満の声が会場に満ちたけれど、椅子はその言葉に忠実で、集まったもの達を何処かへ連れ去ってしまった。
 影屋も地上へ帰されたのだが、閉廷への展開が今一理解できず、遠くになってしまった半円の綺麗に並んだ椅子を見上げた。
「よぉ。」
 振り返るとそこにはハートのジャックが立っていた。
「ありがとな。命拾いはしたが、職は失った。」
 ニシシと笑う青年は、影屋に手を差し出して勝手に握手をした。
「この法廷はさ、願いの強さで決まるんだ。誰もが死刑を強く望めばそうなる。あんたが俺を死刑にしたくないって誰よりも強く思ってくれたから俺は生きてるんだ。だから、柄じゃないが、ありがとな。」
「私、私もありがとう。私、勇気を貰って、ちゃんと言えたの。だから、ありがとう。」
「勇気?俺から?」
「うん。あなたが笑ってると、すごく安心して、言っても大丈夫って感じがして、そしてたら勇気が沸いてきて、言えたの!」
「へぇ、よく解んねーけど、よかったな。俺もあんたもさ。」
「うん!」
「これからどうするんだ?」
「私みんなとはぐれちゃって、身体も小さくなっちゃったの。」
「みんな?小さく?そりゃ、どういう理由だ、お嬢さんalice。」
「最初はみんなでお茶会をしていたの。帽子屋と蒼いワンピースの女の子と白い兎と、それから猫の兄弟がやって来て、バラに悪戯をしたと言って、首を切られるからって逃げたの。そしたら一人になっちゃって。壁を越えられなくて困っていたら芋虫さんが大きくなる豆と小さくなる豆をくれたの。大きくなる豆で壁を超えて、小さくなる豆で元に戻ろうと思ったら小さくなっちゃって。あれ、でも小さくなったけれどあなたは私より少し身長が高いだけ…何でだろう?」
「はは、そりゃ俺は男だからお嬢さんaliceよりは背は高いかもな。あんたはさ、小さくなったと思っているだけで実はそんなに縮んではないんじゃねーのか?壁がでっかく感じただけじゃねーのか?」
「そんなはずは…無いと思うんだけど…でも、よくわからないや。」
「なら、そうなんだよ。それでいいじゃねーか。」
 鷹揚に青年が笑うと、何だかそれが正しいような気がして、影屋も釣られて笑顔になった。
「これからどうするんだ?」
「解らない。けど、みんなを探そうと思う。帽子屋を見つければ私は帰れると思うから。」
「何処に?」
「えと、私の…世界に?」
「へぇ、じゃぁ、暫く一緒に探してやるよ。俺、今無職だからさ。助けてもらったお礼っちゃぁ何だけど。」
「ありがとう。私一人じゃ不安だったの!」
「そうと決まれば取りあえず、進むか。こんな所に長居は無用だ。」
「そうだね。」
 椅子はまだ頭上で綺麗に整列し、次の裁判を待っていた。
 二人はそんな場所に背を向け、とにかく歩き始めた。
 暗く思えた世界は、誰かが隣に居る、それだけでなんだか何でもないただ黒いだけの世界に思えて、影屋は可笑しくて笑った。
 青年はそんな影屋を不思議そうな顔で見ていて「何が可笑しいんだ?」と訊ねてきたが、影屋は首を振って答えなかった。

 暗い世界の中で
 ただそれは 眩しかった。
    


+end+
2008.04.11〜2008.06.05
















































4 校内の旅


 -決まってるだろ?-


 並んで歩く道の先。
 回り道なら近道か、それとも迷いの道なのか。
 巡り巡りの夢の先。
 行きつく先はあるのだろうか?

 小さなお嬢さんaliceは考える。

 まるで不思議の国。
 まるで御伽噺。

 三年六組の教室のドアを開けると、そこはそんな場所でした。


「それにしたって、退屈だな。」
 青年はあくびを噛み殺しながら影屋に問いかけた。退屈と言われても、確かに何もない真黒な道の先へ歩いているのだからそれも道理。影屋に面白い話の一つや二つ話して聞かせる器量があればまた別の話かもしれないが、そんな役回りは生憎持ち合わせていない。だから影屋はそう問われても返す答えを持ち合わせてはいなかった。
「まっくろだな。」
 返答が無いのをよそに、青年は再度問う。何か答えを返さなければ…けれど何を?二人きりになって初めて、影屋はこの青年と自分との間に会話するべき話題が無い事に行き詰る。裁判終了後は勢いもあってか言葉を交わす事も出来たのに、今ではそれが過去の栄光のように遠いところで輝いているように見えて仕方がない。
 どうしようとあれやこれやを考えて、結局言葉にならない影屋を横目に、
「はは、あんたはどうしてそう悲しそうな顔をするんだ?よし、そんなあんたに一つ良い物を見せてやろう。なぁに、心配する事ないさ。俺とあんたの仲だからな。」
青年は快活に笑って右胸のポケットから小さな袋を取り出した。
 ハートの紋章が描かれたいかにも高級そうな生地の、手のひらサイズの小さな袋。
 声を落として彼は言う。
「いいか、この事は誰にも内緒だ。俺とあんただけの秘密だぜ?」
 そしていきなり足を止めて、影屋の前に片膝をついてしゃがみこんだ。
 影屋は急いで自分にブレーキをかけ、ぶつかるのを回避する。青年と影屋。二人の伸長差がこれで逆転する。
 少し影屋が覗き込むようにすると、青年は手の中の小さな袋の口をそっと開いた。
 そこにあるのは、ハートの紋章。
 ハートの紋章そのものだった。
「これは女王queenの証と呼ばれる紋章だ。俺らハートの兵隊の詰襟についているこのバッチとは訳が違う。俺らのは金で出来ているが、こいつはルビーだ。真っ赤な女王queenお気に入りのな。」
「これを…どうしてあなたが持っているの?」
「ちょっとね。ある双子から預かっているのさ。女王queenに見つかれば間違いなく首が飛ぶが、彼女は他の宝石で自分を着飾る事に忙しい。しばらくはきっと気付かない…気付けないさ。」
「すごく綺麗。」
「当然さ。誰もが美しいと思うように作られている。これを持っているものが女王queenになれるって噂もある。ま、俺は男だから女王にはなれないけどな。」
「見せてくれてありがとう。でも、大丈夫?」
「何を心配してるんだ、あんたは。俺の身の上か?それとも、あんたの身の上か?見たからって呪われやしねーさ。見た事を黙っておけば見てない事と同じ。今この瞬間は無かった事になる。口裏はしっかり合わせてくれよ?でもま、これでさっきのあんたの悲しそうな顔は消えたかな?」
「そ、そんな顔してたかな?」
「表情の読み方は人それぞれさ。俺にはそう見えただけ。だから、ま、元気になってくれりゃそれでいい。俺はあんまり気回しは得意じゃねー。適当だ。慰めたりは不得意分野だ。それでも、ま、あんたは俺に遠慮する事無いんだぞ。恩人なんだから、色々命令すりゃいい。腹が減ったとか疲れたとか。俺は軍人だからその辺りの一般的な感覚は我慢出来ちまう。あんたの事はあんたの言葉で伝えてくれ。出来る限りなんとかしてやる。頼りがいあるぞ。何せ俺はハートの兵隊Jackだからな。」
 青年なりの不器用な様で器用な気づかいに影屋は気付き、自分が悩みに思っていた事が何でもない事なんだと思った。
「私、あなたと話せる事が少なくて、何を話していいのか解らなかったの。」
「何でもいいじゃねーか、話題なんて。あんたと俺とは出会って一日だって経ってないんだぜ、お嬢さんalice。話題に縛られない事は良い事だぜ。好きな話が出来るじゃねーか。」  小さな袋に紋章を大事に閉まって、立ち上がりながら彼は言う。
「俺とあんた。初めましては終わったんだ。だったら、あんたなら次は何て言う?」
 鷹揚に笑って、影屋に問う。
 影屋もつられて笑った。
「退屈しのぎの方法、知ってる?」
 ニシシと青年が笑う。
「俺は生憎退屈しのぎとは縁が遠い。けれど、退屈をしのぐほどしのいできた悪戯好きは知ってるぜ。出てこいよ、真上にいるんだろう?
 青年がそう言って言葉を投げた上空。黒いだけの空間に森のような木々が大きく唸りを上げて茂っていた。
 一体いつからここに木があっただろうか?驚いて見上げた先に、二つの尻尾がぶら下がった。
「「もしかして俺達を呼んだのか、ハートを首になったハートの兵隊Jack。いや、兵隊を首になった兵隊Jackってか?」」
「どっちでもねーし、どっちでもあるか。首になったと言っても首を切られたわけじゃねーよ。このお嬢さんaliceのおかげでまだまだ繋がっていやがるさ。」
「「はは、そんな事は確かにどっちでもいっしょだな。それにしても合縁奇遇。小さな小さなお嬢さんalice。先刻見て以来どこへ逃げたかと思えばこんなところで落ち合うとはね!」」
 ゲラゲラゲラ猫は笑う。
「何だ、知り合いなのか?この双子と。」
「知り合いといか…帽子屋さんと一緒に居る時に逃げなきゃいけなくなったのが…」
「なんだ、この双子の被害者か。あんたもどうにも退屈しのぎと縁が遠いな。今度は何をやらかしたんだ?」
「「なぁに、ちょいとね。」」
 ニヤリと笑って猫は言う。
「「お嬢さんaliceは知っての通り、女王queenの大切に色をつけてやったのさ。愉快愉快、笑いたくなるな。首切り鋏が追ってきて俺たちみんな散り散りよ。」」
 他人事のように猫は笑う。
 げらげらげら猫は笑う。
「どうにも本当に退屈しないな。お前たちの預かりものだ。取りに来たんじゃねーのか?」
 青年は笑い続ける猫に右胸ポケットから小さな袋を取り出した。
 それはさっき影屋が見せてもらった、ハートの紋章が入った小さな袋。
 猫たちはそれを見るなり目を縦に細めて口の端を精一杯釣り上げた。
「「おやおや、恐ろしいものを見せるな兵隊Jack。そりゃもう、過去の遺物だよ。俺たちはそんなものには飽きちまったのさ。やった事はしかたがないさ。後悔せずに次へ進もう!もう俺たちにそれは必要ないのさ。捨てるなり捨てるなり好きにするのがお前の自由だ!」」
「なんだよ、今まで持ってた俺がバカみたいじゃねーか。」
 気まぐれな猫に、青年は飽きれ顔で答える。それから、
「捨てるっても、勿体ねーしな。結構な代物だ。女王queenに返す義理はもう無いし…」
「「首になった今じゃ、お前と女王queenとの間に絆なんてありゃしない。いいね、自由!不思議な言葉だ!」」
 ひゃっほいと跳ねて、尻尾で木の枝につかまり、くるくる回転したかと思うと突然影屋の眼前に猫の顔がにゅっと飛び降りてきた。
 にんまりと目を縦に細めたまま猫が笑う。
「「おやおや、考え付いたね。あぁ、考え付いたとも。そもそもの話。この紋章はあの女王queenに嫌気がさしていたと見える。だから俺たちにこう言った。どうかどうか可愛い猫さん。私を盗んでくださいな。」」
「勝手にストーリーを決めるなよ。それはお嬢さんaliceが決めることだ。」
「「それで俺達は考えた。考え付いて、考えた。兵隊Jackが決めかねているのなら、どうぞと渡せば良いじゃないか。」」
「おいおい、それで今度はお嬢さんaliceで遊ぼうって言うのか?退屈はしのげるが、いくらなんでもお嬢さんaliceの気持ちが知れん。」
 ゲラゲラゲラ猫は笑う。
「「気持ち気持ちとても大事な事だよね!だったら聞いてみようかい、お嬢さんalice、あんたどう思う?」」
 今までの会話の流れについていけず、影屋は突然訪ねられた質問にまで頭が回らなかった。頻繁に自分を指されていはいたけれど、まったく話が解らない。
 困った顔で青年を見ると、青年は青年で思案しながら影屋の答えを待っている。裁判の時には見せなかった深刻そうな表情で、影屋の不安を煽り立てる。
「わ、わからない。」
 影屋はどうにか息をついて、それだけ気持ちを吐きだした。
「「わからないわからない。お嬢さんaliceはどうしてそうもわからない?」」
 影屋の目の前で猫がくるくる回って見せる。
「ダンスを見せている場合じゃねーだろ。お嬢さんalice、この猫はあんたにこの女王queenの紋章を譲れと言ってやがる。あんたは今まで一緒に歩いてきた限り、厄介事はあんまり好きじゃないだろう?この紋章を持つ自信はあるのかい?」
 そう言われて影屋はようやく猫たちがはしゃいでいる訳や青年が深刻そうにしている訳が解った。
 みんな影屋の事を待っているのだ。
「「自信なんていらないのさ。いるのは受け取る勇気だけ。勇気なんて欠片でいい。そうだ、きっと勇気も要らない。いるのは欲しいという物欲だけさ。タダでくれてやるんだから、遠慮しないで受け取れよ。」」
 ゲラゲラゲラ猫は笑う。
「俺はあんたが良いなら貰って良いと思うぜ。俺は男だ。女の飾りは必要ない。」
「だけど、私女王に首を…切られ…るのは嫌。」
「「おいおいおいおい。心配ないさ。女王queenが気にしてるのは宝石の数だけ!いちいち覚えちゃいないのさ!そんな小っさな飾り物!あってもなくても同じだとそう思い込んでいるのだから!だから女王queenはこいつをほったらかしにして権力を振りかざしているんじゃないか!遠慮はいらない、礼にも及ばない。プラスはあってもマイナスはないのさ!」」
「猫の言う事は話半分に聞いとけ。それでも、ま、大方そういう事だな。」
 青年は言う。
「あんたの好きにしていいぜ。さっきも言ったろ?なんせ俺はハートの兵隊Jackだ。女王のお気に入りの部隊に所属してた男だぜ。」
 快活に笑って。
「頼り甲斐、あるぜ。受け取れよ。」
 もしもがあれば助けてやる。その言葉に魅了され、影屋は小さな袋を受け取った。
 重みのある袋の中身。
 ルビーの赤。
 ハートの紋章。
 女王queenの証。
「なるほどな。下品な赤もあんたに掛かれば上品な色に見えてくるぜ、お嬢さんalice。」
「「よく似合うぜ、お嬢さんalice。これであんたの未来も薔薇色だ!」」
 ゲラゲラゲラ猫は笑う。
 ニシシと青年が笑う。

 どうしてだろ。
 こんなに恐ろしいものが、それだけで愛おしくさえ思えた。



+end+
2009.07.25→修正2011.01.26