嗚呼、あれは鳥だろうか?
大空を駆けて行くのが視える。
嗚呼、けれど私のこの両の目はとっくの昔に光を無くした筈なのに…
黒い獣に、くれてやったはずなのに…
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朝の光が無い目に突き刺さる。
そんな感覚で私は毎朝目を覚ます。
右手のテーブルには熱い紅茶。
左手のテーブルには読みかけの本が置かれたまま埃をかぶっている。
この瞳を失ってから、一体どれだけ月日がたったのか…。
カレンダーも時計も見ることが出来ない為、はっきりとした時間と言う概念が私には完全に欠落していた。
それでも何故か朝日が解った。
微かな光を感じているからではなく、身体に感じる微妙な空気の流れ、その振動による変化、温もりによって全身で感じているだけに過ぎないのだが。
本に溜まった埃が、ただ経ち逝く時の進み具合を物語っている。
私は物語を読み解く事が好きだった。
物語はいつだって、ヒーローが居て悪が在る。
その悪を打破する為にヒーローが存在していると言っても過言ではないだろう。
だが、一体その後の物語はどう展開するのだろう?
たった一つの悪が滅びて、それでも壊された全てが全て元通りに幸福に戻るのかといえば、きっとそうではないはずだ。
いつも物語が終わると、ほんのひと時の余韻とそれが明けての続きを想う。
けれど、もうそんな物語を読むことは出来ないのだけれど。
「ならば、あんたは俺の読むストーリーを聞けばいいさ。」
私の目覚めてからの思考に、不意に誰かが口を挟んだ。いや、不意でも無い。私はきっと…絶対そこにそれが在るだろうと思いながら思考していたのだし、その誰かは聞かずともわかっていたのだから。
もっとも朝の光が解るのとは、同様の仕組みとは言い難いが…。
「いえ、貴方のストーリーは聞きたくありません。」
私は黒い獣であるところの誰かに言ってやった。どうせ言ったところで傷つきもしなければ、何とも思わないのがこの誰かさんだ。
「なら、あんたがストーリーを作ればいいさ。」
誰かさんであるところの黒い獣はにんまり笑って、あるいは笑わずそう言った。
黒い獣とはそもそも愛称のようなもので、呼び名が無いからそう呼んでいる。いや、実際私の目をくれてやるまでは、あるいは本当に獣だったのかもしれないが…
「私は作る側でなく読む側です。」
「だったら俺が作ってやるよ。」
「遠慮します。貴方は壊す側でしょう。」
「いや、案外出来るかもしれないぞ。」
「では、やってみるといいですよ。」
「昔、…いや、違うな。あるところに…?月並みか。」
「永遠に悩んでいてください。」
ブツブツと呪文のようにどこかで聞いたことのある冒頭を呟きだした彼を脳の片隅から追い出し、私はもう一度朝日を見た。
いや、もしかすれば…これは朝日と思い込んでいるだけで、夕日なのかもしれないが。
それも些細なことだ。
見えていなければ。
昼も夜も、朝も夕方も、皆同じなのだから。
「おい、」
追い出したはずの黒い獣が、また私に声をかけてきた。
「何でしょう?」
答えてあげると残念そうに返事があった。
「無理だった。」
「えらく諦めがいいですね。」
「無駄だった。」
「えらく思い切りがいいですね。」
「無味だった。」
「えらく素直ですね。作り手でも無いモノが紡いだ物語なんて、そんなものですよ。」
本気なのか、遊んでいるのか。それでもとりあえず言葉を返してあげてみたものの、それはあっさり無視された。
「だから、お前が作れ。それを俺が屠ってやる。」
「嫌ですよ。壊される前提で物語を語るなんて。それに言ったじゃぁありませんか。私は読む側ですよ。と」
私はしれっとして答える。
「ふん、まあ良い。何でも良い。読む側か作る側か壊す側か、立場なんて立ち位置でコロコロ変わるもんだからな。いつか俺が作る側に読む側に回ってやってもいい。他の側に回ってやってもいい。だが、それも今は何でもいい。いい加減に本当に腹が減ってきた。」
「そうですか、では朝ご飯にしましょう。」
「えっ」
「……」
どうやら、今は朝ではないらしい。
「まぁ、何でも良い。食えればな。」
それでも…目の見える彼でも、そんな事は些細なことであったようだ。
私はそれから着替えるでもなく、そのままの格好で「では食事に行きましょう。」と宣言した。
黒い獣はにんまり笑って、いや笑わず「よし。」と満足そうに言った。
私たちの食事という概念は、一般人とは比べてはいけない。
食物から栄養を取ることが=食事ではないからだ。
まず、この黒き獣。彼は私の与える血肉を食らって栄養を取る。
そして私。私はその黒い獣のエネルギーを食らって栄養を取る。
彼が飢えれば、私も飢える。
一蓮托生の間柄だった。
これは呪いだ。
私がこの目をやった時にかけた、またかけられた、永遠の呪い。
私は例えこの穢れた生き物でも、私の傍にいてくれると言うのなら、傍にいて欲しかったのだ。
そう、その為に目をやったと言いかえても良いぐらいに。
実際、そうなのだろう。
あの時私は持って生まれた「物語を読む」能力で異端扱いされていた。それは人だけではない。同じ能力を持つ存在からもだ。
誰も私によりつかず、誰も私にかかわらず、私という存在は意図的に抹消され、いてもいなくても同じように扱われていた。
だが、この黒い獣だけは違った。
いや、腹が減っていただけなのかもしれないが…それでも私に声をかけた。
「あんたを屠ってもいいか?」
と。
「私は死にたいと思って生きてきたけれど、食われて死ぬのは痛いから嫌だ。」
そう私が言うと、
「けれど、俺も腹が減っている。」
と黒い獣は言った。だったら
「私が餌を用意する。だから私を食べるのは止めて欲しい。」
と提案すると、
「だが、今すぐあんたの一部でも良いから食べたい。でなければ俺が死ぬ」
と黒い獣は答えた。私はせっかく声をかけてくれたこの獣に死なれては困る。いなくなられては嫌だと必死でこの目を差し出した。
「物語を読む」目だ。このせいでひどい扱いを受けた。だったら食べてもらえばもう異端じゃ無い。
脳内でせこい計算があった。もちろん、そんな事をしても異端じゃなかった事にはならないのだが。そのときの私には、ただその黒い獣を繋ぎとめておくことで精一杯だった。
「じゃぁ取り合えずこれで今は我慢する。」
黒い獣はそう言って私の目を食べた。
「あんたが傍にいてくれる限り、私は餌を与え続ける。」
私の目を食べる黒い獣に私は言った。
「じゃぁ、あんたの傍にいてやるから、餌を運べ。」
黒い獣は私に言って、
「だが、あんたが逃げないように俺もあんたに呪いをかける。」
とも言った。
「いいよ。」
それには私は快諾した。私が逃げられなくなるということは、それはつまりずっと一人にはならないと言う事だったからだ。
「あんたは俺に餌を運ぶ。だが、あんたの餌は俺だ。俺のこの魔力を糧にしかあんたは生きられなくなる。あんたが俺に餌を与え続けなければ、同時にあんたは俺と共に死ぬ。どうだ。恐ろしいか?」
「いや、むしろ私はうれしい。一人で死ぬのが怖かったんだ。」
私は正直に言った。黒い獣は不敵に笑って、いや笑わなかったのかもしれないが、
「契約成立だ。もっとも待てと言われてももうあんたは呪われちまってるけどな。」
と言った。私は私の身体に何の異変も感じなかったが、それでもこの全体の気だるさがそのままこの黒い獣の空腹に通じていると解った。
それ以来、黒い獣は私と共にある。
いや、私が黒い獣と共にあると言ったほうが正しいのか?
私は大好きな物語を読むことは出来なくなってしまったが、勿論今でも異端として大層な扱いを受けてはいるが、それでも以前ほど死にたくは無くなった。
この黒い獣に餌を与え、生かし続けるように。
私もまた、生かし続けた。
この黒い獣の為に、両腕を紅く染め…それも見ることが無ければ染まっていないと同義だが…
他人という他人を殺戮して、与えた。
この黒い獣に。
今の私は悪魔に魅入られた 唯一つのちっぽけな存在で
それ以上でもそれ以下でもない。
死ぬまで彼と共にあり、死ぬときは共に滅びるだろう。
いや、彼のかけた呪いが本当だとしたらだ。
だが、疑いはしない。
私が死に、彼が生き延びたところで、それが見えなければ同じなのだから。
今の私には何も見えない。
物語すら、語りかけてはくれない。
それでいい。
それだけでいい。
黒い獣の傍らに、その命を搾取して生きよう。
そうだ、這い蹲ってでも生きるのだ。
これと共に在るのなら、またこの世界の暗闇も意味が在る。
+++終+++
2007.12.12→加筆修正2011.01.15
+序章+ +蒼之章+