残留思念-表紙


  これは…
  まだ私が
  生まれたての魔術師であった頃の
  記憶の欠片の物語である。


    破天荒マジカルストーリー
    「残留思念」


  それでも、何度でも巡り狂う―――




   ◆ 序章

    ◇ 紅之章

     ◇ 蒼之章

      ◇ 翠之章

     ◇ 橙之章

    ◇ 藍之章

   ◆ 締章















































序章


 記憶の泉を垣間見ると、その端々から流れ出す瑞々しい景色が私の横をかすめて逝くのが解った。
 それでも、私はその流れの一つを手に取ろうとは思わない。
 流れ出た記憶は、きっともう私のものではないのだ。

 だから…
 せめて垣間見える情景の数々を、私は新たに記憶するとしよう。



 これは、私がまだ生まれたての魔術師であった頃見た、記憶の欠片の物語である。




2007.08.04



+紅之章+
















































紅之章


 嗚呼、あれは鳥だろうか?
 大空を駆けて行くのが視える。
 嗚呼、けれど私のこの両の目はとっくの昔に光を無くした筈なのに…
 黒い獣に、くれてやったはずなのに…


 +++++++


 朝の光が無い目に突き刺さる。
 そんな感覚で私は毎朝目を覚ます。
 右手のテーブルには熱い紅茶。
 左手のテーブルには読みかけの本が置かれたまま埃をかぶっている。
 この瞳を失ってから、一体どれだけ月日がたったのか…。
 カレンダーも時計も見ることが出来ない為、はっきりとした時間と言う概念が私には完全に欠落していた。
 それでも何故か朝日が解った。
 微かな光を感じているからではなく、身体に感じる微妙な空気の流れ、その振動による変化、温もりによって全身で感じているだけに過ぎないのだが。

 本に溜まった埃が、ただ経ち逝く時の進み具合を物語っている。

 私は物語を読み解く事が好きだった。 
 物語はいつだって、ヒーローが居て悪が在る。
 その悪を打破する為にヒーローが存在していると言っても過言ではないだろう。
 だが、一体その後の物語はどう展開するのだろう?
 たった一つの悪が滅びて、それでも壊された全てが全て元通りに幸福に戻るのかといえば、きっとそうではないはずだ。
 いつも物語が終わると、ほんのひと時の余韻とそれが明けての続きを想う。
 けれど、もうそんな物語を読むことは出来ないのだけれど。

「ならば、あんたは俺の読むストーリーを聞けばいいさ。」

 私の目覚めてからの思考に、不意に誰かが口を挟んだ。いや、不意でも無い。私はきっと…絶対そこにそれが在るだろうと思いながら思考していたのだし、その誰かは聞かずともわかっていたのだから。
 もっとも朝の光が解るのとは、同様の仕組みとは言い難いが…。
「いえ、貴方のストーリーは聞きたくありません。」
 私は黒い獣であるところの誰かに言ってやった。どうせ言ったところで傷つきもしなければ、何とも思わないのがこの誰かさんだ。
「なら、あんたがストーリーを作ればいいさ。」
 誰かさんであるところの黒い獣はにんまり笑って、あるいは笑わずそう言った。
 黒い獣とはそもそも愛称のようなもので、呼び名が無いからそう呼んでいる。いや、実際私の目をくれてやるまでは、あるいは本当に獣だったのかもしれないが…
「私は作る側でなく読む側です。」
「だったら俺が作ってやるよ。」
「遠慮します。貴方は壊す側でしょう。」
「いや、案外出来るかもしれないぞ。」
「では、やってみるといいですよ。」
「昔、…いや、違うな。あるところに…?月並みか。」
「永遠に悩んでいてください。」
 ブツブツと呪文のようにどこかで聞いたことのある冒頭を呟きだした彼を脳の片隅から追い出し、私はもう一度朝日を見た。
 いや、もしかすれば…これは朝日と思い込んでいるだけで、夕日なのかもしれないが。
 それも些細なことだ。
 見えていなければ。
 昼も夜も、朝も夕方も、皆同じなのだから。
「おい、」
 追い出したはずの黒い獣が、また私に声をかけてきた。
「何でしょう?」
 答えてあげると残念そうに返事があった。
「無理だった。」
「えらく諦めがいいですね。」
「無駄だった。」
「えらく思い切りがいいですね。」
「無味だった。」
「えらく素直ですね。作り手でも無いモノが紡いだ物語なんて、そんなものですよ。」
 本気なのか、遊んでいるのか。それでもとりあえず言葉を返してあげてみたものの、それはあっさり無視された。
「だから、お前が作れ。それを俺が屠ってやる。」
「嫌ですよ。壊される前提で物語を語るなんて。それに言ったじゃぁありませんか。私は読む側ですよ。と」
 私はしれっとして答える。
「ふん、まあ良い。何でも良い。読む側か作る側か壊す側か、立場なんて立ち位置でコロコロ変わるもんだからな。いつか俺が作る側に読む側に回ってやってもいい。他の側に回ってやってもいい。だが、それも今は何でもいい。いい加減に本当に腹が減ってきた。」
「そうですか、では朝ご飯にしましょう。」
「えっ」
「……」
 どうやら、今は朝ではないらしい。
「まぁ、何でも良い。食えればな。」
 それでも…目の見える彼でも、そんな事は些細なことであったようだ。
 私はそれから着替えるでもなく、そのままの格好で「では食事に行きましょう。」と宣言した。
 黒い獣はにんまり笑って、いや笑わず「よし。」と満足そうに言った。

 私たちの食事という概念は、一般人とは比べてはいけない。
 食物から栄養を取ることが=食事ではないからだ。
 まず、この黒き獣。彼は私の与える血肉を食らって栄養を取る。
 そして私。私はその黒い獣のエネルギーを食らって栄養を取る。
 彼が飢えれば、私も飢える。
 一蓮托生の間柄だった。
 これは呪いだ。
 私がこの目をやった時にかけた、またかけられた、永遠の呪い。
 私は例えこの穢れた生き物でも、私の傍にいてくれると言うのなら、傍にいて欲しかったのだ。
 そう、その為に目をやったと言いかえても良いぐらいに。
 実際、そうなのだろう。
 あの時私は持って生まれた「物語を読む」能力で異端扱いされていた。それは人だけではない。同じ能力を持つ存在からもだ。
 誰も私によりつかず、誰も私にかかわらず、私という存在は意図的に抹消され、いてもいなくても同じように扱われていた。
 だが、この黒い獣だけは違った。
 いや、腹が減っていただけなのかもしれないが…それでも私に声をかけた。
「あんたを屠ってもいいか?」
 と。
「私は死にたいと思って生きてきたけれど、食われて死ぬのは痛いから嫌だ。」
 そう私が言うと、
「けれど、俺も腹が減っている。」
 と黒い獣は言った。だったら
「私が餌を用意する。だから私を食べるのは止めて欲しい。」
 と提案すると、
「だが、今すぐあんたの一部でも良いから食べたい。でなければ俺が死ぬ」
 と黒い獣は答えた。私はせっかく声をかけてくれたこの獣に死なれては困る。いなくなられては嫌だと必死でこの目を差し出した。
 「物語を読む」目だ。このせいでひどい扱いを受けた。だったら食べてもらえばもう異端じゃ無い。  脳内でせこい計算があった。もちろん、そんな事をしても異端じゃなかった事にはならないのだが。そのときの私には、ただその黒い獣を繋ぎとめておくことで精一杯だった。
 「じゃぁ取り合えずこれで今は我慢する。」
 黒い獣はそう言って私の目を食べた。
「あんたが傍にいてくれる限り、私は餌を与え続ける。」
 私の目を食べる黒い獣に私は言った。
「じゃぁ、あんたの傍にいてやるから、餌を運べ。」
 黒い獣は私に言って、
「だが、あんたが逃げないように俺もあんたに呪いをかける。」
 とも言った。
「いいよ。」
 それには私は快諾した。私が逃げられなくなるということは、それはつまりずっと一人にはならないと言う事だったからだ。
「あんたは俺に餌を運ぶ。だが、あんたの餌は俺だ。俺のこの魔力を糧にしかあんたは生きられなくなる。あんたが俺に餌を与え続けなければ、同時にあんたは俺と共に死ぬ。どうだ。恐ろしいか?」
「いや、むしろ私はうれしい。一人で死ぬのが怖かったんだ。」
 私は正直に言った。黒い獣は不敵に笑って、いや笑わなかったのかもしれないが、
「契約成立だ。もっとも待てと言われてももうあんたは呪われちまってるけどな。」
 と言った。私は私の身体に何の異変も感じなかったが、それでもこの全体の気だるさがそのままこの黒い獣の空腹に通じていると解った。

 それ以来、黒い獣は私と共にある。
 いや、私が黒い獣と共にあると言ったほうが正しいのか?
 私は大好きな物語を読むことは出来なくなってしまったが、勿論今でも異端として大層な扱いを受けてはいるが、それでも以前ほど死にたくは無くなった。
 この黒い獣に餌を与え、生かし続けるように。
 私もまた、生かし続けた。
 この黒い獣の為に、両腕を紅く染め…それも見ることが無ければ染まっていないと同義だが…
 他人という他人を殺戮して、与えた。
 この黒い獣に。


 今の私は悪魔に魅入られた 唯一つのちっぽけな存在で
 それ以上でもそれ以下でもない。
 死ぬまで彼と共にあり、死ぬときは共に滅びるだろう。
 いや、彼のかけた呪いが本当だとしたらだ。
 だが、疑いはしない。
 私が死に、彼が生き延びたところで、それが見えなければ同じなのだから。
 今の私には何も見えない。
 物語すら、語りかけてはくれない。
 それでいい。
 それだけでいい。
 黒い獣の傍らに、その命を搾取して生きよう。


 そうだ、這い蹲ってでも生きるのだ。
 これと共に在るのなら、またこの世界の暗闇も意味が在る。




 +++終+++




2007.12.12→加筆修正2011.01.15



+序章+  +蒼之章+
















































蒼之章


 永遠と変化し続ける
 時の中で世界は壊
 れ続けた。その
 破壊を見続け
 たのはきっ
 と僕だけ
 かもし
 れな
 い
 。
 

 +++++++


 …
 サヴ
 ョラン
 ウェスト
 ナョコヘント
 ランエテンダラ
 ダラダンテエラ
 ョンヘコョナ
 ワケスェウ
 ガラョ
 シヴ
 …

 魔法使いは呪文を唱える。
 錬金術師は鍋をかき回す。
 魔術師は心理を探し続ける。
 
 僕の師は既に死に絶えた。
 魔術師にとって珍しくも、その生を真っ当して寿命で死んだ。
 僕は師に魔術師としてのイロハを習いはしたが、それ以上の事を教えられはしなかった。
 だから、一人に成って初めて道に迷った。
 師はよく“魔術師は心理を探し続ける”と言っていたが、はて心理とはなんだろう。
 肝心のところは何も教えてくれはしなかった。
 こんなにも半人前で、何も出来ない。
 僕に残されたのは、ただ持っていた能力だけだった。
 師が大事に使えば恐ろしい武器になると言ってくれた、この能力だけ。
 これが無ければ、未だに僕は独りだったかもしれない。

 そう。
 でも、僕は独りじゃない。
 僕のそばにはもういつだって、この黒い獣が居てくれるのだから。

「今日の狩は順調なのかい?」
「順調?それは俺に言ってるのか?」
「勿論だね。君しか話し相手は居ないのだから。」
「だったら答えは Y E S だ。順調すぎて面白くないぐらいさ。」
「はは、それはそれは。」
「それより、お前のはどうなんだ?」
「うん?僕?そうだね…良くも悪くもいつもと同じさ。」
「そうかい?」
「そうさ。いつだって僕に聞こえるのは人間の欲深な私欲のコエだけさ。」
「はんっ、変な力を持ったもんだな。」
「まぁね。でも、君がそのコエを消してくれる。耐えられなくは無いさ。生まれてから一度だってこの音が消えたことは無いんだ。だから、ありがたいよ。君という存在が。」
「おいおい、よしてくれ。感謝なんかされたら、その後がやりにくい。」
「そうかい?案外デリケートなんだね。」
「お前がおかしいのさ。」
「うん、それは認める。」
「だろ?」

 察しのいい人間は嫌いじゃない。
 僕とこの獣との関係はイーブンじゃない。主従でもない。
 食う側と食われる側。
 実にシンプルな関係だ。
 そして僕の能力は、ヒトという生物の心のコエ…本音とも言えなくも無い声をまるでラジオのように拾い集め、脳内にガンガン放送するとてつもなく迷惑な能力だった。
 勿論、最初からこの存在に気付いていたわけではない。
 さっき言ったとおり生まれたときから聞こえていたのだ。それが普通で当たり前だった。
 けれど僕に物心がついて、周りを見るようになったとき理解したんだ。
 あぁ、この笑顔の裏にこの言葉が鋭く光っている。
 と。
 切っ掛けなんて些細な事。
 女の子が僕に近づいてきて、それを断ったときに口は動いていないのにコエが聞こえてた。
(なによ、せっかく声かけてあげたのに。)
 だから、僕は返事をした。
「そんな事頼んでない。」
 すると彼女は驚いて言った。
「っ…なんで私の考えてる事がわかったの!?」
 僕も驚いて言った。
「だって君、今、言ったじゃないか。」
 本当に些細な切っ掛けだった。
 馬鹿じゃない僕にはこれで十分だった。
 今まで聞こえていたのは、こういったものだったんだって。
 その日からそのコエはノイズになった。
 五月蝿くて五月蝿くて仕方ない。
 音ガキエナイ!
 静カナ場所がホシイ!
 僕は彷徨った。
 そんな場所を求めて。
 毎日毎日昼も夜も休むことなく歩いた。
 休めばどんどんコエを拾う。
 動き続けてさえいれば、電波の悪いラジオのようにはっきりとその音が聞こえなくなるから。
 けれど僕はこの時まだ、人間だった。
 だから、そんなに長くは歩いて行けはしなかった。
 いつしか僕は歩き疲れて、道に倒れこんだ。
 痛いとも感じなくなっていた。
 そこへ現れたのが師だ。
 彼は何も言わなかった。
 心も何も言わなかった。
 ただ僕を拾うと、家へ連れて帰って看病してくれた。
 その後も僕は師の心だけは聞けたことが無い。
 ただ彼の言葉から推測するに、彼には心が無かったみたいだ。
 可哀想だとは思わない。
 ただ救われた。
 それからしばらくして、そこは僕の居場所になり、師は僕の師になり、僕は師の弟子になった。
 けれど、師は死んだ。
 僕と出合った時、既に長くは無い身体だったみたいだ。
 師が死んだ。
 僕にとって、それは別段悲しくは無かった。
 けれど、一人に成って初めて道に迷った。
 こんなにも半人前で、何も出来ない。
 師の死体を見つめて、僕は途方にくれた。
 この先何も起こらなければきっといつまで経っても死体が腐る様を見つめて途方にくれ続けていただろう。
 だが、彼は来た。
 その黒い獣は師の死体をパクリと一口で食べると、ニヤリと笑って現れた。
「へぇ。」
 黒い獣はそう言った。
「ふーん。」
 僕はまったく訳がわからずとりあえず頷いた。
「じゃ、自己紹介は省くぜ。それとこいつを食ったことも謝らない。」
 自己紹介を省けるほど知り合った訳ではなかったけれど、特に知りたいと思わなかったので、
「それは別にいい。」
 とだけ言った。
 その時僕の頭の中にあったのは、その黒い獣もキコエナイ側である事への認識と安心感だった。
「なんだ、知り合いじゃないのかお前たち。」
「いや、僕の師だ。けれど、もう死んだから関係ない。」
「へぇ、案外冷たいのな。」
「いや、冷静なんだよ。」
「結局“冷”たいんじゃん。」
「…。で?」
「あー、俺はお前も食いたい。」
「馬鹿じゃないの?」
「いや、俺も結構冷静な方だ。だから、もちろん食わせてくれるなら条件を呑む。」
「俺がさっき食った奴なんか、死んだら食わせてくれるという約束だった。俺は約束を守った。死体はあんまり美味しくないんだがね。」
「ふーん。委細納得した。で?」
「食わせてくれ。」
「わかった。別に惜しくない命だ。けれど僕はまだ師匠の様な魔術師に成れていない。その事自体についてはどうでもいいが、けれど僕は魔術師に成りたい。心理というものを見てみたい。それにはこのコエが邪魔なんだ。僕は成るまでこのコエを何とかしてくれ。そうしたら心理を見つけた後に僕の身体をくれてやろう。」
「わかった。委細承知した。なんてな。お前の真似をしてみた。」
「似てないよ。」
「そうかい?まぁ何にせよ契約成だ。俺はお前の声を消していこう。お前は早く成るといいその魔術師とやらに。」
 黒い獣は出合った瞬間と同じようにニヤリと笑って僕に言った。
 
 こうして、黒い獣は僕と共に在るようになった。
 いや、僕が黒い獣と共に在ると言った方がいいのだろうか。
 ただこの契約のおかげで僕は嫌なコエのほとんどを気にしなくてよくなった。
 確かに完全に無くなったとは言えない。
 だが少なくとも前よりは随分良くなったと言えるのではないか。
 黒い獣がこのコエをどうやって消していっているのか想像がつかないわけではないが、だがそれは気付かない方がいいだろう。
 この静けさを失うぐらいならば、多少の犠牲は仕方ない。
 僕はやっと魔術師らしく心理を捜し求められる場所を見つけた。
 傍らに師の面影を残す魔具を飾り、道という道に駒を進めて。

 僕は既にこの時狂っていたのかもしれない。
 師という存在を失って、道を見失い、自暴自棄になって。
 自覚はなかったけれど、もしかしたら…あるいは。
 けれど、行き着く先はこの時から見えていた。
 いずれ辿り着くだろう。
 それまではこの黒い獣と共に、他人を搾取して生きよう。

 そうだ、這い蹲ってでも生きるのだ。
 これと共に在るのなら、またこの世界の雑音も意味が在る。




 +++終+++




2008.01.19→修正2011.01.15



+紅之章+  +翠之章+
















































翠之章


 虚無に満ち溢れたこの世界で、有を作り出すことは用意ではない。
 それは一つの世界を作り上げるほどのエネルギーを要し、しかしながらそんなエネルギーはビックバン以来まだ誰も手に入れてはいない。
 一介の人がそれを手に入れようものなら、きっとその身を滅ぼしただろう。


 +++++++


 自覚している。
 それはとても素晴らしいことだと思う。
 何が何であるのか解っているということは、そしてそれがどうあるべきかも解るという事だから。
 その点において、私という魔術師はひどく自覚的だった。
 自分が何者であり、また何の為に生きているのかを全て自覚していた。
 それは生まれた、その瞬間。母なる身体に宿った瞬間から、「あぁ、なるほどな。」と自覚したぐらいだ。
 だからその最終地点に向かって日々を生き、生きた。
 どんな突拍子も無い出来事も、そんな自覚の前にはただのつまらないほんの些細な事に成り下がり、そしてそれは本当に些細な事の様に思えた。
 
 この黒い獣と出会うまでは。

 世界とはなんと無数の歯車で出来ているのだろう。
 その歯車の個々に役割があり、また役割の持たぬもは一つとして無い。
 狂ったように見える歯車でさえもそれがピタリと収まり、狂うという役割を与えられている。
 だが、黒い獣は私を見て言った。
「お前だって、そんな歯車の一つなのさ。お前が生まれたその瞬間から役割を見出していたというのなら、それはそれで大層立派なことだがな。それでもお前、そんな役割は本当に些細な事さ。本当に些細だ。だってお前、そんな役割なんて知らずとも生きていけるんだからな。」
 私は役割を重要とし生きることを些細としたが、黒い獣は生きることを重要とし役割を些細と言った。
 言葉にすればそれだけの事だったが、けれどその逆説は私の役割をひどく脅かした。
 信じているものは失いはしないが、それはいつも消失の恐怖にさらされている。
 この時の私はそれを恐れていた。
 だから黒い獣に言った。
「そんな事は無い。私には役割こそが全てで、それ以外は全て些細な事だよ。今私の目の前にお前が居ても居なくても。そんな事はどうでもいいのさ。どうでもね。私が私の役目を果たす上では出会っても出会わなくても同じなのさ。」
 けれど黒い獣は「ふむ。」と言っただけだった。
 黒い獣にとって、それこそが些細なことであるように。
「まぁ、同じというなら同じなのかもしれないが、違うといえば違うかもしれないぞ。なんせ俺はお前を食おうとしているんだからな。まだ何も言ってはいなかったが、実は俺はお前を食う為に来た。お前の様な言い方をすればその為に生きているといっても過言ではないだろう。なんだよ、急に露骨に顔を歪めるとは。今までも数人食ったがそんな風に嫌な顔をされたのはもしかしたら初めてかもしれないぞ。」
「それはそれは、初めてという事は常に驚きと未知に満ち溢れている。体験するという事は即ち知識を得るという事に他ならない。」
「まったくもって、その通りだ。此処まで嫌な顔をする奴も存在するということを今得たというわけだからな。だがまぁ、そんな事はどうでもいい。俺はお前を食う。それだけだ。おい、また顔を歪めたな。本当に珍しい人間だ。今までの奴は条件付だがほぼ二つ返事で食わせてくれたぞ。」
「それはそれは、なんと優しい人間も居たことで。そして訂正しておく。私は人間ではない。魔術師だ。人間であったのが先かなどと論じる必要は無い。私は魔術師として生まれそして魔術師として死ぬ。今までもそしてこれからも人間である瞬間は一瞬として無い。私を人間と一緒にするな。彼らは何も見てはいない、ただ純粋にヒトなのだから。」
「おいおい、そりゃぁいくらなんでも人間ってものを馬鹿にしすぎじゃないのか?お前たちは人間であることがベースだろう?そして魔術師というのは職業ってやつじゃぁないのか?」
「そもそもその考え方が間違っている。それは人間が力を持とうとした結果の概念上の呼称に他ならない。魔術師は職業ではない。魔術師は魔術師というカテゴリーの生物であり人間とは異なる生物だ。」
「はんっ、面白い考え方の奴もいるんだな。なるほどな。そうとも言えなくも無いのか。一介の人間がちょっと世界を垣間見たところで、力を得たところで、それは人間であるだけ、か。ならお前はどうやって生まれたんだ。俺は他に魔術師という人間は見たが、魔術師という生物は見たことが無い。魔術師はどうやって生まれる?分裂でもするのか?」
「魔術師の生まれ方は残忍で残酷だ。人間の女の子宮に宿る。ただの人間から生まれる残酷さは魔術師としての恥にも等しい。だがそれはこの世に生まれでる為の儀式に過ぎない。魔術師は無から有へと転ずるのだ。つまりどこからでも生まれ、またどこへでも還る事ができる。子宮に宿るのはただ単に手足が欲しかったからに過ぎない。」
「おいおい、無から有などと大それた事を言うな。それじゃぁまるでどっかの宗教でいうところの神様とやらではないか。」
「神はただ存在するだけだ。役割すら持たない。」
「役割を持つお前たちとは違うってのか?」
「違う。」
「まぁ、委細承知した。この言い回しは今ちょっとブームなんだよ。前に食った奴が口癖でな。おいおい顔を歪めるなよ。美人が台無しだぞ?」
「はんっ、世に聞くお世辞とはこのことかい?」
「世辞を言ったつもりは無いけどな。」
「なら何を言ったんだ。」
「さぁな。そんな事もうどうでもいいだろ?とにかく食いたい。それだけだ。幸いにして俺はお前を食うだけの力がある。お前は無防備だ。まるでもって無防備だ。無防備すぎて逆に安心出来ない所もあるがな。一息で食いついた瞬間毒でも吐くんじゃないかってな。」
 黒い獣は大声で笑った。
「お望みなら毒でも皿でも出さないでもないが、だがそんなことをした所で無駄なんだろう?お前という生物には何もかもが無に還りそうだ。」
「魔術師と成るだけあるな。その目はよく鼻が利く。はは、目なのに鼻が利くとは可笑しい話じゃないか。」
「お前の話はまったく持って不可解だ。ただ結果をじらしているように思えてならない。」
「はは、じらされるのは嫌いか?」
「結果が見えているからこそ、耐えられないこともある。私は役割すら自覚している魔術師だ。お前と出会ったその瞬間自分の命が終わるのを視た。私は何をしてもお前に食われるだろう。そして、それが終局の役割だ。それなのに、何故会話をする。話す暇すら与えず食われても、私は何の太刀打ちも出来なかっただろう。お前が警戒しているのは何だ。お前ほどの奴が警戒する事は何だ。」
「ははっ。勘違いも面白いな。俺がお前を警戒するなんて事は一切ないさ。俺は会話が好きなんだ。脈略も無く、意味不明でもな。なんだ、お前は魔術師である割にはそんな些細な事が赦せないのか?お前が俺に食われることが確定していようと、それが今だという保障は何処にも無いというのに。そんな事は俺の気まぐれ次第さ。お前を食いはしたいが、まぁ、それを今直ぐというほど急いてはいない。そうだな、十年先だって、それはそれでかまわんさ。」
「やめてくれ。そうやって歯車を崩そうとするのは。お前がやっているのは歯車を狂わしているのではない。狂うという役割すらない。それは完全なる破壊だ。この密接した世界で、それを一つ壊すという事は、世界すらを崩壊させるに等しい。私が死ぬという歯車を何故破壊する。」
「なんだ、だったらお前、死にたいのか?あんなに嫌な顔をしておいて。」
 黒い獣の言葉に、私の言葉は無かった。
 そうだ。私は死にたいのだろうか。
 黒い獣が私を食べると言ったその時駆け巡った感情は、それは確かなものだったというのに。
 私が私であると自覚しているその感覚は、生きることを尚、望んでいるというのに。

 私は気付いた。
 世界と私はまったく違った終着を望んでいるのだと。
 それは些細な事かもしれないが、気付いてしまえばそれ程重大な事実は無かった。

「私は…死にたくないのかもしれない。」

 呆然と、私は黒い獣に言った。
「私はこの世界の系譜に従ってその役割を全うしてきたつもりだったが…それすらもかけ外れていたのだろうか。」
 黒い獣はにんまり笑って私に言った。
「そんな違いも些細な事さ。気付いたその瞬間から、それは間違いとなり、正解ともなる。それだけの事だろ?みんな同じさ。いずれそうなるが、今ではないいつか。それだけの事さ。」
 その笑いは今までの私なら嫌な顔を浮かべているような笑いだったが、今の私は笑って返せた。
「そうそう、あんたは笑ったままのほうがいい。」
 黒い獣はそう言って、あんぐりと大きな口をあけた。

 私という個人はそもそも生き方を間違ったのだろうか?
 それとも、それはそれまでそうであっただけで、今からが正解なのだろうか?
 解らない。
 解らないが…それでもいい。
 どうせ私はもう、笑ってしまったのだから。
 これからはこの黒い獣の存在に、歯車を沿わせて生きよう。

 そうだ、這い蹲ってでも生きるのだ。
 これと共に在るのなら、また私という個人の死も意味が在る。




 +++終+++




2008.03.09→修正2010.01.15



+蒼之章+  +橙之章+
















































橙之章


 取り出したはずの心臓は、あらゆる血管と別れを告げながらも尚、鼓動を続けていた。
 【悪魔だ。】
 誰かが口にした言葉は瞬く間に集まる全ての者に伝わり、そしてその誰もが続けて叫んだ。
 悪魔だ。
 悪魔だ。
 悪魔だ。
 だから笑ってやった。
 口の端を吊り上げて、心臓を握り締めたままのその手を差し出しながら。

 今この瞬間、恐怖という名の支配が始まったことを僕は実感していた。


 +++++++


 どっくん

 どっくん

 温かい。
 動いている。
 生きている。

 僕は目の前に死体を積み上げ、取り出した心臓を眺めていた。
 血液を送り出すポンプの役割の心臓。
 その動きは新たな血を欲してこの手の中で求め続けている。
 本体を失った今、その欲は決して満たされることはないというのに。
 健気だと思う。
 やがて静かになり、完全に停止するその時までコレは生きるという事を止めないのだから。
「気持ち悪い。」
 鼓動を止めた心臓を、僕はべしゃりと地面へ叩きつけた。
 こんなものは動いていなければ何の価値も無い。血なまぐさい、気持ち悪いだけの塊だ。
 生きている間だけ、その存在が“生きている”という価値を与えられる。
 死後の世界に、だからそれらは必要ない。
 僕はもうずっと前に生きることを辞めている。
 生きるということはとても辛いからだ。  それは死ぬことよりも辛いからだ。
 死とはなんて身近で、そして何よりの安らぎだろうか。
 みんな死ねば良いと思う。
 楽になりたいと、そんなに強く願うのであれば。
 僕は、そして死を選んだ。
 このどっくんどっくん五月蝿い音を、だからこそ取り出したのだ。
 嗚呼、それなのに何故生きながらえてしまったのか。
 答えは明確だ。
 この…黒い獣とでも表現しておこう…黒い獣が僕の邪魔をしたのだ。
 そいつは僕が心臓を取り出した瞬間ふらりと現れてこう言った。
「おいおい、そいつはちょいといただけないな。」
 何処から現れたのか、それはまったくと言って良いほどわからなかった。
 ただ本当に僕の目と鼻の先に現れて好き勝手な事ばかりを言って、それは死体はまずいだの死んだ奴はもう食い飽きただのそんな内容だったように思うけれど、そんな事ばかりを言って最後に
「だからまぁ、それはちょっと待て。」
 そう言って僕の心臓を僕の手から奪うと、勝手に僕の体の中に戻してしまった。
 身体に戻った心臓は、すぐにあらゆる血管と手をつなぎ再び生命活動を再開させ、それを確認した黒い獣は満足そうに笑った。
「それでいい。また食いごろになったら食いに来る。それまではまぁ死ぬほど生きるんだな。」
「ちょっと待て!困るよっ、今死にたいんだ!」
「おいおい、せっかちな奴だな。俺が言うと説得力って奴はまったくないが、そう簡単に死のうとするな。死ぬってのは全てが終わるって事だぜ?お前が思ってるよな安らぎなんてそんな場所には漂っちゃいないのさ。」
「僕の考えていることが分かるのか?」
「誰の考えだって分かるだろ?誰だって。ただ分かるということを知らないだけだ。分かるからこそ先を読んで周りに合わせられるんだろ。こうしていれば良い、ああしていれば良い。そうやって人間関係は成り立ってるんじゃないか。はん、お前そんなこともわからないのか?珍しくも人間に溶け込んだ魔術師も居たもんだな。自分がどれだけ稀有な存在か自分で確立できてないのか?おいおい、まさか自分が魔術師であるということさえ気付いてないってわけじゃないだろう?」
「何の話かさっぱりわからない。魔術師って何だよ。」
「はは、本当に知らないのか。なら余計なキーワードを伝えてしまったってわけか。魔術師についてはもう自分自身で知るしかないのさ。俺は幸運ながら魔術師じゃない。魔術師なら何人も食ってきたがな。まだ成ってすらいない魔術師に行き会うってのは初めてだ。ありがとよ。俺は初めての出来事は嫌いじゃない。ずっと生きてるからな。平坦な線上のブレは大歓迎さ。それでもお前は今までよく人間に溶け込んでたよ。まぁ、殺人鬼としては目立ってたみたいだけどな。」
「僕は…殺人鬼じゃない。」
「おいおいおいおいおいおいおいおいおい。否定するのか?お前、その手で自分の心臓を繰り出しておいて?おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい。謙遜してるのならそんな必要はないさ。褒めているつもりもないけどな。」
「違う。」
「なんだよ、まさか自殺は殺人じゃないってのか?笑わせてくれるよ。自分さえも殺せるならもう立派な殺人鬼だ。まぁ、それでもお前は生きてるけどな。お前が自分を殺し続ける限り何度だってその心臓を鼓動させてやるよ。俺は人一倍グルメだ。死体はもういらない。新鮮さに欠けるからな。それでもお前は若すぎる。まだ焼いても無い生肉を食うようなものだ。はは、変な例えになったな。俺がお前らみたいなのを食うとき、別に焼いたりはしねぇぜ?そのままかじるからな。安心したか?」
「あっ安心なんかっ!!」
「出来ない?おかしいな。いや、今までの奴らがおかしすぎたのか?これが普通の反応ってやつなのか??」
 首をかしげて考えるしぐさをする黒い獣。その馬鹿馬鹿しさに怒り以外の感情がこみ上げてくる。
 これを消したい。
 その心臓の音をゆっくりと止めて。
「おい、俺を殺そうとしても無駄だぜ。」
「ぐっ。」
「わかるだろうよ。格の違いってのが。まだ魔術師に成ってもいねーお前と何人もの魔術師を食ってきた俺。恐怖してろ。そんで俺が食うまで生きろ。どうやら普通ってのを見失っちまったせいでもうお前の扱いが理解できない。これ以上の会話も面白みもない。だから俺は帰る。」
「まっまてよっ!」
「何だよ。」
「お前、一体何なんだよっ!」
「はんっ、それすらも分からないんじゃ話しになんねーよ。」
 黒い獣はそのまま次の瞬間には居なくなっていた。
 瞬きをした記憶も無いのに、目の前から忽然と消えてしまったのだ。
 恐怖なんてものは無かった。
 あるのはただの怒り。
 そして殺意。
 どうしても殺してやりたい。
 殺せるのか?
 殺してやる。
 何が魔術師だ。殺人鬼だ。
 僕は僕だ。
 僕以外の何者ですらない。
 けれど、確かに今の僕では奴を殺すどころか触れることさえも出来ないだろう。
 練習が必要だ。
 次に逢う、その瞬間までに。
 皮肉だろうか幸運だろうか。
 僕は人間に溶け込んで生きていた。
 友人もいれば両親もいる。近所づきあいもそこそこ出来ている。
 そうだ、練習台には困らないじゃないか。
 僕はそのまま真っ直ぐ家に帰って、とりあえず両親の心臓を抜き取った。
 真っ赤に染まった僕を見て、二人は驚いた顔をしたまま絶命した。
 どっくん どっくん
 どっくん どっくん
 二人の心臓がしばらく僕の手の中で行き続け、そして生きることを止めた。
 手の中ではじけたその鼓動の感覚が、僕の心を何故か満たした。
 生きている意味を、今感じた気がした。
 けれどそれはつかの間で、死んだ心臓からは何も感じ取ることは出来なかった。
 いや、感じるものはあった。
 どうしようもない吐き気と嫌悪感。
「気持ち悪い。」
 僕はその手に乗ったままの両親の心臓を床に投げ捨てた。
 生きている間の精錬さはそこには無かった。
 ただの肉の塊がそこには在った。
「気持ち悪い。」
 僕はそれは罪悪感ではなく、ただの肉という感触の気持ち悪さから、両親の心臓だったものの上に嘔吐を繰り返した。
「はぁ…はぁ…」
 息が苦しい。
 何だろうか、この感情は。
 わからない。
 わからないから、今度は友人を殺した。
 そのままその足で。
 友人の家族も殺した。
 僕の掌の上で心臓が脈を打つ。
 心臓が。
 どっくん どっくん
 どっくん どっくん
 どっくん どっくん
 そのリズムが僕の乱れた呼吸と吐き気を整えていく。
 そしてこの掌という箱庭に今生まれた鼓動という生をまるで天からの創造物であるかのように感じた。
「気持ち悪い。」
 そしてその感覚も束の間に、生きることを止めた心臓を吐き気をこらえて投げ捨てた。
 なるほど、これは脈を打っている間だけなんだ。
 僕はようやく理解した。
 それからは夢中だった。
 出会う人から全て心臓を取り出し、その箱庭で生を感じ、そして嘔吐を繰り返した。
 だんだんと嫌悪感は薄れていった。
 だんだんと吐き気も無くなっていった。
 そして高揚感と、達成感だけが残った。
 僕の周りから、やがて次第に人は姿を消した。
 生き残った人は町の外へ逃げ始めた。
 誰かが僕を「悪魔」と呼んだ。
 けれど僕はそれを否定した。
 そうだ、僕は魔術師なのだ。

 心臓を握り締めたままのその手を差し出しながら、僕は逃げ惑う人を見て笑ってやった。
 口の端を吊り上げて、ゆっくりと声は出さずに。
 まるで黒い獣であるかのように。
 今この瞬間、恐怖という名の支配が始まったことを僕は実感していた。
 これは良い。
 いまなら黒い獣の一挙一動が同じ目線で語れるかもしれない。
 その時は黒い獣と共に、生を賭して生きよう。

 そうだ、這い蹲ってでも生きるのだ。
 これと共に在るのなら、また僕の殺戮にもイロがでる。




 +++終+++




2008.03.12→修正2011.01.15



+翠之章+  +藍之章+
















































藍之章


 曇った硝子にひびが入った。
 廊下はずっと水浸しのまま。
 痛々しいこの家の悲鳴が、私の耳に無意味に響く。
 結果とは残酷な時の無駄遣い。
 求めるものがあるのなら、最初からそんなもの必要はないのだから。
 ノートに刻んだ文字はきっと無意味。
 遥か昔から決められた物事の螺旋は
 時間が流れる分だけ存在し
 言葉の数だけ分裂している。
 望だけならば、持たないほうがいい。
 闇雲な世界は、決して優しくないのだから。
 未知とは耐え難い恐怖だ。


 +++++++


 作った笑顔は三秒で剥がれ落ちた。
 けれど顔の筋肉はなんとか笑顔を維持しようと痙攣している。
 薄暗い食堂の店内。
 客はまだ、一人もいない。
 面接官はこう言った。「すみません、もう定員オーバーです。」張り紙にはそんな事一言も書かれていなかったのに。
 こうして私は通算四十八回目の面接に落ちた。
「人間なんて、呪われてしまえ。」
 私は通算四十八回目の負け惜しみを吐いて、その店を後にした。
 清々しい午後の陽気。
 温かみが話しかける。
「落ち込むものですか。私の良さをわからないあの店に雇ってもらおうと思ったのがそもそもの間違いです。私は気高いのです。もっと高級な場所が似合うのです。」
 私は返事を返した。
 何故だろう。私はこんなにも素晴らしい力を持っているのに、人間って奴はそれを聞いただけで妙な顔をする。そんなものは存在しないと言う。現に目の前に私というものが存在しているのにも関わらず。
「変なの。変なの。変なのー。」
 私は大声で喚きながら結局帰宅した。
 帰宅すると私の工房で何かが待っていた。
 私の帰りを待つそれは、そう…黒い獣とでも評しましょうか…ぼんやりと日向ぼっこをしていた。
「よぉ、お前。随分ご機嫌だな。」
 黒い獣は私を見るなり全て分かったような嫌な笑みを浮かべてそう言った。
「まったくもって。全てが全て神の目の書物の様に予定通りだったわよ。わざわざ確認するまでも無く、1mmのはみ出しも無くね。」
「だろうな。お前って奴はどこまでもどこまでもそういう運命らしいからな。」
「馬鹿らしい。運命なんて無意味。極限の世界で限りない可能性を追求する私の前では、そんな書物は燃やして灰にでもしてやるわ。」
「はん、そいつは頼もしいな。どんどん燃やしてくれ。」
「言われなくても。それよりあんたはどうなの?」
「俺?見ての通りの日向ぼっこさ。いつも通りな。」
「無意味。だって日光はあなたのエネルギーに成りはしないのに。」
「おいおいおいおい。今さっきいった可能性はどうしたよ。エネルギーになる可能性ってのはないのかい?」
「ないわ。あんたという生命体にとってそんなものはエネルギーにすらならないのよ。だって、何も感じていないじゃない。想像だけで。本当の温かさなんてあんたは一生理解し得ないんだから。」
「確かに。それは本当だ。神じゃなくても分かる。俺って奴は昔からそうさ。」
「その割にはあんたはどうしてそんなに自分の事を知らないでいられたの?私があんたを研究して長いけど、せいぜい分かったのはそんな程度の些細な人格みたいなものだけ。内面なんてまだ触れてさえもいない。外面すらまだ猫の皮一枚はがしたようなもの。一体全体何であるかなんて私の研究が無意味のようで仕方ないわ。」
「無意味無意味って無意味な事なんて何一つないはずだろう?失敗や成功すら意味を持つ。」
「それは人間だけよ。無意味なものは所詮無意味でしかないのだから。人間は自分達をより高く評価することにかけては一流ですもの。だからこそ失敗は成功であり、成功はより高い成功になる。けれど、それこそ無意味。そんなことはまったくもって無意味だわ。だって失敗は失敗、成功は成功だもの。」
「そう言われちゃ人間も形無しだな。どうしてもそう言うなら別に俺はどうでもいいさ。人間なんて奴らはただ美味しくあればそれだけで素晴らしい存在に成り得るのだからな。」
「そこよ!どうしてあんたは人間を食べるの?魔術師ならまだわかる。力があるもの。あんな非力な生き物をどうして食べるの?あんたは…弱くなりたいの?」
「さて、それはどうだろうか。実はというと【食う】という行為は気に入っている。骨を砕く感覚・血肉の味・恐怖のスパイス。最高だろ?食い飽きる事は無い。際限なく食い続けられるとも思う。けれどそれは人間に限った話じゃぁ無い。生き物。生きているもの。それを生きていると定義できるもの。あるいは…生きていたものならなんだって食欲をそそられる。食べる為だけに特化したとも考えられはしないだろうか?けれど決して大食いというわけじゃぁ無い。待てといわれれば待つ。優先順位はあるがな。」
「そうね。あんたのその優先順位の中に私の命も含まれてる。そしてそれはきっと永久に尽きない時間だわ。だってあんたという生き物の全てを知るには私一人の時間じゃ少なすぎるもの。」
「いいさ。言ったとおり大食いじゃない。美食家でもない。お前が俺を調べつくして死んで逝ってからでも全然かまわないのさ。そん時お前は死体だろう?もう契約を結ぶ口も無い。」
「勝手に私を食べるつもり?」
「それはお前の知らないストーリーさ。」
「ふん。」
 私は黒い獣の不遜な態度にただ憤慨した。
 もう今日は口をきかないつもりで明後日の方を向き、その後はひたすら黒い獣を意識から排除し続けた。
 黒い獣は私の態度に暫く笑っていたが、そのうちまた無意味な日向ぼっこを始めた。

 私がこの黒い獣とであったのはもう随分前の事。
 その日私は始めての面接を受け、初めて面接に落ち、陰鬱な気分で「変なの。」と呟いて帰宅した。
 と、家に入るとそこにそれは在った。
 全て分かったような嫌な笑みを浮かべて、「おかえり」と言ったのだ。
 私はとりあえず「無意味。」と返事をした。初対面の黒い獣にそんな事を言われる筋合いは無いと私の頭脳が叩き出したのだ。
 けれど黒い獣は何の意にも介さず「じゃ、この世にさよならを言う時間だぜ?」とその右手を私に差し出した。
 何を無意味な事を。馬鹿じゃないの?私は差し出された右手を右手で弾き返して、家のドアを譲ってあげた。
「ここから出て行きなさいよ。言っておくけれど私は人間じゃないのよ?あんたと向き合ったところで何のマイナスも無いんだから!」
 本当は怖かったけれど、その恐怖は勇気より役に立ったと思う。
 立ち向かってくる私を見て、黒い獣は目を丸くし「おいおい、物騒だな。そんな無意味な事するなよ。お前はどの道俺に食われるんだからな。」と言った。
 言われた私は勿論食べられるなんて真っ平御免だ。
「私を食べるですって、あんた一体何様のつもりなの!」
「そんな事は誰にも解らねーよ。誰にもな。ただ食べる。それだけだ。」
「そんなこと赦されるわけ無いじゃない!あんたが何者かわからない限り絶対食われてなんてやらないわ!」
「じゃぁお前、俺が何かわかるのか?」
「わかるわけないじゃない、本人でさえ知らないんだから!」
「お前はそんなこともわからずにいて、よく人間と間違えられないな。俺の今まで出会った奴らは、きっとそれなりに俺の事を解っていたと思うぞ?まぁ、全員食っちまったけどな。」
「私を侮辱しているの?」
「いや、本当の真実を伝えたに過ぎねぇよ。」
「わかったわ。そんな無意味な事。やってあげるわ。あんたっていう奴が一体何であるのか。私という魔術師の前に洗いざらい吐き出させてやる。そしてあんたは約束しなさい。私が答えにたどり着いたなら、私を食べないと!きっと私が答えにたどり着くから食べる事は出来ないでしょうけどね。」
「いいだろう。約束してやろう。俺は約束は大好きだ。お前達はいつも違った演出をしてくれる。違うという事ほど楽しい事は無いからな。」
「契約を結んだ?」
「結ぼう。」
 そういう訳で、私は命をかけて黒い獣の正体を突き止める努力をしている。
 あらゆる方面へと力を伸ばし、情報を処理し、並び替え、それでも何故この黒い獣からは何も出てこない?
 毒も呪いも、それこそ物理的な攻撃すら無効化してしまえる黒い獣。
 好き嫌いも無い。
 完璧を兼ね備えたような…無意味な存在。
 この黒い獣は何の為に存在するのだろう。
 ただ…食べている。
「あんたは食べるだけに存在しているの?」
「さぁな。」
「あんたは生きていると言えるの?」
「さぁな。」
「もっと真面目に答えなさいよっ!」
「おいおい、約束を忘れたのか?俺はお前が答えを出さないほうが美味しい食事にありつけるんだぜ?」
「そうだけれども、あんたが少しでも答えないとわからない部分もあるのよ!私はそんな約束よりもあんたという物の存在を定義させる事の方が優先順位が入れ替わっているの!答えを導き出す。そこに無意味な答えがあるとしても!」
「だったらもう、最終的にあんたを食べさせてくれればいいんじゃないのか?」
「タダでくれてあげるほど私は安くないわ。」
「はん、言ってくれるじゃねーか。」
「当たり前よ。そんな事、あんたにはわかりきってるじゃないの。」
「確かにな。」

 あと何年、生きられる?
 それまでに答えは出る?
 無意味だわ。
 そんな自問自答すら、無意味。
 だって答えは最初から私の目の前でのうのうと生きているのだから。
 でもかまわない。
 そんな無意味な会話が、今では意味の在るものに変わりつつあるのだから。
 だからこの黒い獣と共に、未来を無意味に生きよう。

 そうだ、這い蹲ってでも生きるのだ。
 これと共に在るのなら、その無意味な時間でさえも有意義だ。





 +++終+++




2008.03.22→修正2011.01.15



+橙之章+  +終章+
















































終章


 途切れることなく続く永遠の記憶。
 それは決して終わる事の無かった物語の輪。

 泉に映った黒い影が笑う。
 それは歪んで獣のようだ。

 誰かが私を呼んで、私はそれらを見るのを止めた。
 もう行かなくてはならない。
 
 記憶の泉に蓋をすると、私は声に従った。



 これは、私がまだ生まれたての魔術師であった頃見た、記憶の欠片の物語である。




2008.03.22



+藍之章+